太平洋戦争末期に実施された”特別攻撃隊”により、多くの若者が亡くなっていった。
だが、「必ず死んでこい」という上官の命令に背き、9回の出撃から生還した特攻兵がいた。飛行機がただ好きだった男が、なぜ、絶対命令から免れ、命の尊厳を守りぬけたのか。
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※本記事は鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』から抜粋・編集したものです。
適材適所とは真逆の作戦
1944年(昭和19年)12月14日、7回目の出撃命令が佐々木に出た。胴体着陸をしてから5日後だった。百式重爆撃機9機が菊水隊という名前で特攻に出撃することになり、それに万朶隊として一機だけで参加せよという命令だった。
直掩機が3機と聞いて、佐々木は驚いた声を出した。百式重爆は通称「呑竜」と呼ばれ、まさに爆撃専門の飛行機である。最高速度は500キロに足らない。
迎え撃つアメリカの艦載機、例えばF6Fヘルキャットは最高速度は600キロを、P51マスタングは700キロを越える。
動きの遅い大型の重爆撃機がたった3機の掩護で敵空母に近づけば、結果は火を見るより明らかだ。ちなみに、直掩の一式戦闘機隼の最高速度は550キロ前後である。そもそも、不利な戦いなのだ。
「どうして呑竜なんか出すんでしょうかね」佐々木は理解できない顔を村崎少尉に向けた。特攻にはまったく不向きな飛行機だった。
呑竜が所属する第五飛行団の小川小二郎団長は、特攻に反対だった。呑竜は、特攻ではなく呑竜本来の使い方で、つまりは爆撃で活躍させたいと願っていた。だが、第四航空軍の冨永司令官は、「全力をもって特別攻撃隊を編成すべし」と命令した。
小川団長は、何度も抵抗したが特攻隊としての出撃を拒否できなかった。
菊水隊の隊員に対して、小川団長は、攻撃には万朶隊の佐々木伍長が一緒に行くと告げ、佐々木のやり方が正しいと思うと話した。
「特攻をやる覚悟で行って、船を沈めて帰ってきたら、立派なものだ。もしまた、状況が悪ければ引き返して、何度でもやりなおすのがいい。佐々木のやっていることは、これこそ特攻隊の最良の模範であると信じている」
午前7時、佐々木はいつもの手慣れた操作で滑走を始めた。と、急に機体が動揺し、尾部が左右に振れ動いた。尾輪が固定していないと気付いて、佐々木はフットバーを踏んで、方向舵を動かそうとしたが、機体はあっという間に滑走路を外れて、野地に飛び出してしまった。
整備の見落としだったが、佐々木としては初めての失敗だった。
整備員達が駆け付けて来た時、重い爆音が響いて、呑竜の9機編隊が上空に現れ、大きく旋回し始めた。佐々木と空中集合するためだった。佐々木は見上げて手を振ったが、どうにもならなかった。
しばらくして、呑竜は南に向かって飛び去った。その後、菊水隊は「敵戦闘機と交戦中」の無線を打った後、連絡がつかなくなった。「目標発見」の無線ではなかった。それは、目標の戦艦までたどり着く前に撃ち落とされたことを意味していた。
呑竜を失った小川団長は、自らの『所感録』に、はたしてこれでよかったのかと書きつけた。「壮烈」「名誉」「旺盛なる責任観念」「任務に邁進」などという精神主義を満足させただけではないのか。指揮官や参謀達にとって、それは、壮烈な快感と言えるだろうが、少しも科学的ではなく、組織として努力していない、なんのための戦いなのだ、司令官達は恥じるべきであると痛烈に批判した。
また、ミンドロ島に連合軍が飛行場を作るのを予測して、「菊水隊ノ九機ヲ健在ナラシメバ、敵ノ飛行場設定ヲ三、四日オクラシメ得ルノハ確実ニシテ、使用ヲ誤リタリ。四航軍ノ特攻ノ使イ方ハ、子供ガカナダライノ水ヲタタキテ顔ヲビチャビチャニヌラシ快哉ヲ叫ブノタグイニ思エテナラナイ」とまで書いた。
8回目の出撃
翌15日夜、8回目の出撃命令を佐々木は受けた。旭光隊と共に出撃せよというものだった。
16日早朝、佐々木は一機で西回りでミンドロ島に向かいサンホセを目指すように言われた。旭光隊の2機は東回りでサンホセを目指すという。
ただ一機で出発する佐々木には、直掩機は一機もつかなかった。これでは掩護するどころか、戦果の確認も不可能だった。
佐々木は司令部の扱いに憤った。「神鷲」と神様扱いまでした特攻隊を、今では、その最期を見届けることさえしない。
猿渡参謀長は姿を見せなかった。整備の村崎少尉が肩を叩いた。
「佐々木、今日は尾輪をしっかりさせておいたぞ。安心して行け」
1時間ほど飛んで、ミンドロ島の上空に近づいてきた。すでに明るくなった大空を、たった一機で飛んでいると強烈な孤独感に襲われた。
島の山ひだにそって飛び続けると、島の南岸が見えてきた。山裾が海岸に沿って傾斜している中に、一部分、土砂崩れが起こったかのような場所があった。
その周辺の海に小さな点が集まっていた。アメリカ軍の上陸地点だった。無数の点は、上陸用の輸送船団と艦船だった。
日本機が接近したことに、まだ気付いていなかった。もうすぐ、上陸地点の陸上と海上から、圧倒的な砲火が上がり、大空は花火を連発したような火煙に包まれるだろう。
そこに突っ込んでいくのは恐ろしいけれど、それより、佐々木にはなにか、虚しく馬鹿げているように感じられた。強烈な孤独が佐々木の全身を包んでいた。命懸けで突進する姿を、味方は誰も見ていない。自分の最期を誰も確認しない。200隻近い敵船団に対して、たった一機で突っ込むことに、どんな意味があるのか。
佐々木は、戦闘機に発見される前に戻ろうと決意して、機首を旋回させた。
9回目
それから2日後の12月18日、9回目の出撃命令が佐々木に出た。冨永司令官は滑走路の横で、出発していく特攻隊に対して、日本刀を抜き、振り回しながら、「進め! 進め!進め!」と叫んでいた。
九九双軽が一機、直進せずにふらふらと蛇行し、冨永司令官とその後ろの見送りの列に突っ込んできた。大混乱になり、冨永司令官は必死になって走って逃げた。
十数分後、操縦していた若い軍曹は、冨永司令官に烈しく叱責された。「特攻隊のくせに、お前は命が惜しいのか」
叱られている隊員は、土色になった顔で頬の筋肉をピクピクと痙攣させていた。何か言いたそうにみえたが、言葉にならないようだった。
「早く用意せい!」冨永司令官は、再度の出発を命令した。
軍曹は敬礼をして、飛行機に向かって走って行った。整備兵と打合せをした後、駆け戻って来て冨永司令官にもう一度敬礼した。そして、しばらく口ごもっていたが、やがて、はっきりした声でこう言った。
「田中軍曹、ただいまより自殺攻撃に出発いたします」
冨永司令官はこわばった顔のまま、何も言わなかった。
佐々木が出発する時、冨永司令官が近づいて来て「佐々木伍長」と声をかけた。
佐々木は気付いて天蓋を開けた。冨永司令官は、日本刀を抜いて佐々木伍長の方に突き出して叫んだ。
「佐々木、がんばれ。佐々木、がんばれ」冨永司令官は、日本刀を頭上で振り回した。
佐々木は、敬礼を返し、出発した。
マニラ上空を南に向かっている時に、爆音が異常になった。空気と燃料の混合比を示すブースト計の片方に不調が現れていた。これ以上、飛ぶことは危険だと判断した佐々木は、旋回してカローカンに戻った。出発してから40分後だった。
戻ってみれば、飛行場には誰もいなかった。飛行場大隊長に事故の報告をして、宿舎に戻ると急に熱が出て苦しくなった。
宿舎で寝ていると、鵜沢軍曹が現れた。リンガエン湾の海岸に不時着して火傷を負い、野戦病院に収容されていたが、とうとう退院して来たのだ。
12月20日、再び万朶隊に出撃命令が出た。ただ、佐々木は高熱が続き、鵜沢軍曹だけが出撃することになった。佐々木は全身がだるく、歩くとふらつくほどに足に力がはいらなかったが、見送りに出た。
「長いこと病院で寝ていたが、腕は鈍ってはおらんよ」鵜沢軍曹は笑ったが力がなかった。
特攻機を故障させたり、わざと不時着したとしか思えなかった鵜沢軍曹は、ここに来て、生きることを諦めたように見えた。
「軍曹殿、死ぬことはないですよ。信念を持てば、必ず帰れます」佐々木は他の者に聞こえないように、鵜沢軍曹にささやいた。
鵜沢軍曹は急に目を輝かせて「そうだ。忘れ物をした」と元気な声で駆け出した。戻ってきた時には、腰に拳銃をさげていた。体当たりをして死ぬのなら、必要のないものだ。不時着をした時、フィリピン人ゲリラから身を守るために、つまり、生きて帰るために必要なものだった。
鵜沢軍曹と若桜隊の二機に、直掩の一機がついて出撃した。一機しかいない直掩機では、掩護できない。戦果を確認できればいい方だ。けれど、何百機というアメリカ戦闘機を相手にして、一機が戦果を見届け、帰還する可能性はないと言ってよかった。
鵜沢軍曹を見送った後、佐々木は全身がだるく、ふしぶしが痛んできたので寝てしまった。
この後、佐々木の記憶はあいまいになる。この日、寝込んだ直後に、出撃命令を受けているのだ。
それを目撃した若桜隊の池田伍長の手記がある。
「ぼくらは毎日、万朶隊の佐々木伍長の部屋に行き、話し合いました。彼は何度か出撃し、戦果を上げて帰還していました。ぼくらはその考えを何度も難詰しました。彼は『死んで神様になっているのに、なんで死に急ぐことがあるか。生きられれば、それだけ国のためだよ。また出撃するさ』と、淡々としておりました。
そんなある日、彼が40度の熱を出してマラリアで休んでいる時に、出撃の命令が来ました。命令伝達に来た四航軍の将校が、本人が起きることもできないでいるのに、『貴様は仮病だろう』と、聞くに堪えない悪罵を残して帰って行きました。彼は『軍神は生かしておかないものなあ』と言って、さびしく笑っていました」
池田伍長は、佐々木が将校に罵られている風景を見た時の気持ちを次のように書いた。「この光景は、若い私達に大きい衝撃となって心に焼き付いてしまいました。この時のことを、一生忘れることはないと思います。ぼくはこの時、はっきりと、特攻隊という言葉から来る重圧感から解放されて、命のある限り戦うことを固く心に決めました。死ぬことの苦悩から解放された後は、案外さっぱりした気分になって過ごしたものです」
池田伍長は、翌21日、特攻隊として出撃した。が、体当たりすることなく、生還した。
鵜沢軍曹は、帰って来なかった。最期の状況は誰にも分からなかった。特攻を回避しようと思う前に、アメリカ軍戦闘機にやられた可能性が高かった。
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