「米英撃滅」を掛け声に雑巾がけ。電柱には「一億一心火の玉だ」。あの頃の街や学校は戦時色に染まっていた【証言 語り継ぐ戦争】

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もんぺ姿で川内高等女学校前で友人と写真に収まる竹内妙子さん(右)(本人提供)

■姉・竹内妙子さん(94)、妹・福地弘子さん(92)鹿児島県薩摩川内市平佐町
竹内妙子さん 現在の薩摩川内市向田本町で生まれた。5歳の時に父が42歳で病気で亡くなり、母と祖母、2歳下の妹の弘子と4人暮らしだった。家は川内川の渡唐口(ととんぐち)と呼ばれる船着き場のそばで、周辺には薬局や旅館があった。元々は農具を売る小さな金物屋だったが、父が亡くなった後は日銭を稼ぐために母がうどん屋を始めた。私が川内小学校に通っていた時に太平洋戦争が始まった。次第に街や学校が戦時色に染まっていった。
福地弘子さん 登校すると、天皇の写真が飾られている奉安殿に礼をした。朝礼は外であり、校長先生の話は、はだしで聞かないといけなかったため冬はつらかった。掃除の時は「米英撃滅」の掛け声に合わせて雑巾を動かした。教わった「いろはにほへと」の手旗信号は今でも、私も姉も全て覚えている。街の電柱には「一億一心火の玉だ」と書いた紙が貼られていた。
竹内 川内高等女学校(現川内高校)に進学した。学校に近い向田と大小路の生徒は、防空要員として警戒警報が鳴ると夜中でも走って学校に向かった。日中は空のバケツを持ち「1、2、3」の号令で水を掛けるまねをしたり、先生の「爆弾投下」の合図で目と耳を手でふさいで床に伏せたりする訓練もした。なぎなたで突く練習もあった。
福地 食料が少なく、家では米の代わりに片栗粉をお湯で溶いたものを食べることもあった。味はなかったが、当時はおいしく感じた。兵隊さんが腹に巻く布に赤い糸で千人針をしたこともある。婦人会の人が家に来たり、街に立ってお願いしたりしていた。1人1針だが、トラは強いということでとら年の人は年の数だけ結び目を付けた。
竹内 1945(昭和20)年7月30日の空襲は忘れられない。祖母は亡くなっていて、家族3人で疎開先がなく残っていた。午前7時半ごろだったか、警戒警報が鳴った。敵が迫っていることを知らせる空襲警報は鳴っていないのに、爆撃機が街を襲ってきた。布団が燃えないよう、家族で川内川の河川敷に何度も運んだ。見ていた男性に「狙われるからやめろ」と叱られたが続けた。敵が見えると布団をかぶり隠れた。「ババババッ」という射撃の大きな音が怖かった。
福地 川でぬらした防空頭巾をかぶり、家族で河川敷の石垣沿いに逃げた。遠い親戚を頼りに宮里町の方に向かった。ランドセルに教科書を詰め込み、母は羽釜と飼い猫を抱いていた。学校用に弁当箱に詰めていた冷や飯を3人で食べた。夜に布団を取りに河川敷に行くと、街は焼け野原だった。あと2週間ほどで終戦だったのに、と今思えば残念だ。
竹内 戦後の十数年間は本当に苦労した。約1年後に、母が借金をして元の場所に家を建てた。ところてんにしょうゆをかけて街の市場で売ると人気だった。組合に入っておらず市場で売れなくなった後は、再びうどんや煮しめなどの酒のさかなを作って店で出した。女学校卒業後は、郵便局に妹と勤めた。2人とも結婚し、子どもに恵まれた。
福地 戦争の話は思い出したくなくて誰にも話をしてこなかった。海外を見ると、なぜ今も戦争がなくならないのかと思う。根源に「人間の欲」があるのだろう。戦争は絶対に、絶対にしてはだめだ。
(2025年3月2日付紙面掲載)

  • 「戦争は絶対にだめ」と話す竹内妙子さん(左)と妹の福地弘子さん=薩摩川内市平佐町

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