「運転するな」「免許返納しろ」…じゃあ、高齢ドライバーはどう移動すればいいのか? 制度なき“正論”が生む交通弱者という構造的孤立

地方の高齢者が免許を返納すれば、移動手段の喪失による孤立が進む。公共交通は減少し、自治体の財政も逼迫。安全と生活維持の両立に向けた制度改革が急務だ。

「免許返納」の代償

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高齢者のイメージ(画像:写真AC)

 高齢ドライバーによる交通事故が起きるたび、インターネット上では「免許返納」の声が大きくなる。だが、この単純な“正義感”が、地方都市を中心に静かに進行する交通からの排除を見えにくくしている。

 都市部と異なり、自家用車が生活の前提となっている地域において、運転をやめるということは、文字通り生きる足を失うことに等しい。

 しかも現在、肝心の代替手段であるはずの公共交通が、採算割れを理由に次々と縮小されている。バス路線は減り、鉄道は廃止され、タクシーの台数すら足りない。そうしたなかでなお免許を返納せよというのであれば

「彼らに何をしろというのか?」

この問いに、私たちは答えなければならない。それも感情や理想ではなく、地域の経済、交通インフラの供給体制、財政制約など、事実にもとづいて考えなければならない。

採算主義が招く交通空白

高齢者のイメージ(画像:写真AC)高齢者のイメージ(画像:写真AC)

 地方における公共交通の退潮は、決して一朝一夕の話ではない。バブル崩壊後、赤字路線の切り捨てが進み、自治体によるバスの補助金も、財政悪化で減らされてきた。高齢化・人口減少が進行すれば、乗客はますます減り、運行会社は赤字を背負いこむ。

 鉄道やバスは、採算が取れなければ成立しないインフラ型民間事業である。これは建前ではなく、厳然たる数字が突きつける現実だ。乗客ひとりあたりの単価が低く、需要がまばらである地方では、運行のための費用を運賃で賄うことはほぼ不可能である。そこで必要になるのが、行政からの継続的な支援だが、多くの自治体がその予算を確保できない。

 その結果、公共交通は市場経済の理論に沿って消滅していく。そして、あろうことか

「高齢者の運転リスク」

という別の論理によって、残された移動手段である自家用車すら手放すよう迫られる。繰り返すが、「彼らに何をしろというのか?」。この問いは、インターネット上の意見にも、行政にも、メディアにも、そして都市部に暮らす“交通選択肢に恵まれた層”にも投げかけられている。

移動困難が招く命の危機

高齢者のイメージ(画像:写真AC)高齢者のイメージ(画像:写真AC)

 交通手段を奪われることの本質は、物理的移動ができなくなること以上の意味をもつ。たとえば、スーパーが自宅から3km先にしかなく、そこまで行くバスが廃止された場合、高齢者は食料調達という日常的行為すら制限される。

 また、月1回の通院も家族の送迎があれば大丈夫というのは幻想だ。そもそも家族が近くに住んでいないケースも多く、仮にいたとしても、平日昼間に毎月送迎できるほど余裕のある家庭は稀である。こうして高齢者は

・買い物難民
・通院難民

となり、最終的には社会から孤立していく。

 移動ができないことは、生活の質だけでなく、命の問題でもある。救急搬送の遅れや、早期治療の断念が、寿命の短縮につながるケースも報告されている。自治体が支援に乗り出すにも、財源が足りない。いまや、交通は行政サービスのなかでも

「最も後回しにされる分野」

のひとつだ。一部の自治体では、免許返納者にタクシー券を支給したり、バスの割引制度を設けたりしているが、こうした施策はごく限られた範囲の応急処置にすぎない。そもそもタクシーのドライバーが不足しており、いざ予約しても「車が出せません」と断られるケースもある。バスも、停留所まで徒歩15分という立地であれば、高齢者にとってはすでに実質的に使えない交通手段だ。

 つまり、制度の隙間はあまりにも大きく、それを個人の努力や我慢で埋めることは不可能に近い。にもかかわらず、インターネット上の意見も行政もメディアも

「免許返納をすれば安全になる」

とだけ強調する。そこに生活が成立するか否かという根本的な視点が欠落している。

 本来、ここまで生活の基盤が揺らげば、大規模な社会的抗議が起きても不思議ではない。だが、高齢者の多くは

「迷惑をかけたくない」
「我慢するしかない」

という戦後的価値観に縛られている。これが逆に、事態の深刻さを外部に伝える力を奪っている。

 さらに、都市部で暮らす人々にとって、地方の交通崩壊は自分には関係ない話であるかのように映る。その無関心が、制度改善への圧力を生まない。政治的コストが小さいから、改善されない。この

「冷静な無関心」

が、構造的な孤立を温存させている。

見えぬ需要が招く空白

高齢者のイメージ(画像:写真AC)高齢者のイメージ(画像:写真AC)

 打開の手段が存在しないわけではない。

・地域単位での乗り合いタクシー
・ボランティアによる移動支援
・小型電動車両を用いたカーシェアリング
・需要に応じた運行が可能なAIオンデマンドバス

といった選択肢は、すでに各地で技術的には実現されている。しかし、これらの手段が局所的な実証実験や短期事業にとどまっているのは、技術力や需要の問題ではなく、根本的には、行政による持続的な運用設計と、それを支える財源の欠如に起因する。

 移動支援サービスを制度として組み込むには、初期投資や車両維持費に加え、

・運行オペレーション
・保険・事故対応
・ドライバー育成と確保
・システム管理
・住民参加の仕組み化

といった複合的な設計が求められる。だが現状、それらは自治体の属人的な担当者に丸投げされているか、単年度予算の枠内で消化されるべき補助金案件として扱われている。こうしたつなぎ型の対応では、中長期的な自立運用は期待できない。

 加えて、地方の交通問題は、財政分配の構造上、優先順位が上がりにくい。移動手段の整備は、教育・医療・福祉に比べて「支援が必要な人」が制度上で可視化されにくく、また即時的な成果指標を設定しにくい。結果として、選挙や政策評価で点数化されにくい分野となり、政治的関心も集まらない。こうした見えない需要に対しては、国の交付金制度も有効に機能しない。

 民間企業が介入しにくいのも、この分野の特徴だ。高齢者中心の地域では購買力が低く、移動の需要はあっても採算は合わない。全国に先行事例があるにもかかわらず、それが広がらないのは、成功するモデルが経済的に評価される仕組みが存在しないためだ。つまり問題は、制度的に支える仕組みの不在なのだ。

 今後求められるのは、移動支援を高齢者福祉や医療政策の一部としてではなく、

「それ自体を独立した社会機能」

と認識し、持続可能なインフラとして位置づけ直す視点である。そのうえで、移動の確保を都市計画や地域医療と統合的に設計し、財政支出の対象として制度化する必要がある。生活の継続に直結する移動手段を、自治体ごとの善意や地域の連帯感に依存させる時代はすでに終わっている。

移動喪失が招く生活崩壊

高齢者のイメージ(画像:写真AC)高齢者のイメージ(画像:写真AC)

 地方に暮らす高齢者が、自家用車を手放すことは、

「移動権の剥奪」

と同義である。交通事故のリスクと、移動の必要性。このトレードオフを、道徳や善意で片付けることはできない。制度的な再構築なくして、この問題の解決はない。

「彼らに何をしろというのか?」

この問いに正面から向き合うためには、安全と生活の両立という現実的な線引きを、社会全体で引き直すしかない。

 そうしなければ、いまもどこかでひとり、外に出られず、声も上げられず、孤独のなかで朽ちていく高齢者がいるという、経済的にも非効率で倫理的にも看過できない現実は、何も変わらないのだ。

小西マリア(フリーライター)

社会問題に鋭い視点を持つフリーライター。モビリティ全般をテーマに、交通政策や環境問題、都市づくりを深掘り。現代社会の課題に迫り、読者に新しい視点やアクションを促す記事作成が得意。

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