「PL学園の生徒数…わずか39人に」高校野球“消えた名門”PL学園の今…聞こえた校歌のメロディ、封鎖されたPL花火大会の臨時改札「なぜ衰退したのか?」

「PL学園の生徒数…わずか39人に」高校野球“消えた名門”PL学園の今…聞こえた校歌のメロディ、封鎖されたPL花火大会の臨時改札「なぜ衰退したのか?」<Number Web> photograph by NumberWeb

梅雨が明けたばかりの7月上旬にPL学園を訪れた

春夏合わせて甲子園優勝7回。高校野球の超名門、PL学園野球部は今――同校を追い続ける記者がこの夏も大阪を訪ねた。封鎖されたPL花火大会用の臨時改札、聞こえてきた校歌のメロディ。名門はなぜ衰退したのか?【全4回の1回目/2回目へ】

大阪の夏はかつて、PLの夏であった。

毎年、8月1日には国内最大級となる12万発を打ち上げるPL花火大会を開催し、会場となる富田林市一帯は数十万規模の人という人で埋め尽くされた。当日は近鉄電車が大阪阿部野橋駅から臨時電車を幾便も運行し、富田林駅には臨時改札が設けられたほどだ。

かつて大阪の風物詩だった“PL花火”の様子。手前に「PL病院」が映る(2018年/筆者撮影)かつて大阪の風物詩だった“PL花火”の様子。手前に「PL病院」が映る(2018年/筆者撮影)

花火大会当日、富田林駅には臨時改札が設けられていた ©NumberWeb花火大会当日、富田林駅には臨時改札が設けられていた

花火、甲子園…PLに熱狂した夏

PL花火大会は正式名称を「教祖祭PL花火芸術」といい、パーフェクトリバティー教団(PL教団)の初代教祖・御木徳一の遺言によって2代教祖・御木徳近が1953年にスタートした神事である。それゆえこの日には、PL教団の信者が全国から100台以上の大型バスに乗って教団聖地である富田林市を訪れていた。つまり、信者にとって花火大会の観賞はいわば聖地巡礼だったわけだ。

そして夏の全国高等学校野球選手権大会が始まればPL学園の硬式野球部が甲子園球場を席巻し、聖地でもどでかい花火(本塁打)を打ち上げた。最盛期は80年代だ。1983年に入学した桑田真澄と清原和博のKKコンビが5季連続で甲子園に出場し、2度、日本一に。1987年には立浪和義や片岡篤史らが春夏連覇を遂げた。アルプス席で巨大な人文字を描き、大阪の地図を描いたかと思えば一瞬にして日本列島の地図に転じるマスゲームのような応援も繰り広げ、絶大な人気を誇った。当時の野球少年たちは、ユニフォームの下にぶら下げたアミュレット(御守り)をギュッと握りしめ、祈りを捧げるPLナインの所作を真似したものだ。

ちなみに、花火大会の翌朝、PL学園野球部の選手たちは打ち上げ会場となる光丘カントリー倶楽部を練り歩き、花火の残骸を拾う通称「ガラ拾い」を行うのが慣例だった。だが、高校生にとって七面倒なこのガラ拾いが免除となる唯一の手段があった。野球部OBの宮本慎也氏は、かつて私の取材にこう証言している。

「夏の甲子園に出場することができたら、このガラ拾いは免除となる。PLの野球部の人間にとって、(大阪大会で敗退したことを意味する)あのガラ拾いだけは絶対にやりたくない、最も屈辱的なことなんです」

87年の春夏連覇に2年生ながら貢献した宮本氏は3年の夏、大阪大会で敗れ、その屈辱を味わうことになる。

ユニフォームの下にぶら下げたアミュレット(御守り)をギュッと握りしめ、祈りを捧げるPLナイン ©JIJI PRESS
ユニフォームの下にぶら下げたアミュレット(御守り)をギュッと握りしめ、祈りを捧げるPLナイン

この夏、PL学園を訪れると…

「神道系の新宗教であるPL教団」と「幼稚園からの一貫校であるPL学園」、そして「KKコンビをはじめ数多のプロ野球選手を輩出した硬式野球部」は密接にして強固に結びついていた。だが、平成の時代に入って三者の関係にひずみが生まれ、瓦解が始まってゆく。

PL学園野球部とその母体であるPL教団が抱える問題を2014年から追及してきた私は、この11年の間に富田林をいったい何度訪れただろうか。2016年に入ると毎週のように通っていたし、同年7月に硬式野球部が活動を休止――いや、事実上の廃部となって以降も、花火大会や正月の時期、入試のタイミングなど年に3、4回は足を運んできたため、その回数は50回以上になるだろう。

喜志駅からPL学園校舎までの通学路 ©Number Web喜志駅からPL学園校舎までの通学路

今年も梅雨が明けたばかりの7月上旬に訪れた。学園の生徒たちが登校する朝の時間帯を見計らって、喜志駅から急勾配の坂を登っていく通学路を歩いた。しかし、見かけるのはPL学園の向かいに位置する喜志中学の生徒ばかり。もちろんPL学園の生徒の多くは、敷地内の寮で暮らしているため通学生はもともと少ないはずだが、それでも間もなく1限目の授業が始まるというのに人の気配がまるでない。

校歌のメロディが聞こえてきた

時計の針が8時を指した時、学園の校舎からは校歌のインストゥルメンタルが流れ始めた。自然とあの歌詞を口ずさんでしまう。PLの校歌ほど愛された校歌はなく、自分が卒業した高校の校歌は忘れても、今もってPLの校歌を覚えている高校野球ファンは多いはずだ。

♪燃ゆる希望に いのち生き 高き理想を 胸に抱く

♪若人のゆめ 羽曳野の 聖丘清く 育みて

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♪PL学園 永久に 向上の道 進むなり

♪ああ PL PL 永遠の学園 永遠の学園

作詞・湯浅竜起 作曲・東信太郎

かつてPL学園の野球部には、野球にいのちを賭すほど希望に燃えた15歳が全国より集まり、羽曳野の丘陵地帯で汗を流して気高き理想郷である甲子園を目指した。永久とこしえに続くと思われたPL野球部の黄金期もいつしか終焉を迎え、2000年代に入ってからは相次いで暴力事件が発覚し、衰退していく。

朝8時、校舎近くの道まで校歌のメロディが聞こえてきた ©NumberWeb朝8時、校舎近くの道まで校歌のメロディが聞こえてきた

今年7月撮影。現地の様子 ©NumberWeb今年7月撮影。現地の様子

生徒数「39人」、花火大会も中止

野球部を物心両面から支えてきたPL教団も信者数の激減に苦しみ、それにリンクして信者の2世・3世が通うPL学園の生徒数も減少の一途を辿った。

現在、PL学園の生徒数は3学年あわせて39人しかいない。中学の生徒数はそれよりも少ない約35人。野球部が強かった頃は、もともとの信者ではなくとも、両親ともに入信すれば入学が許されていた。だが、現在は信仰心の厚い信者しか入学を許されていない。永遠とわの学園とうたわれた学校はもはや、廃校の危機にある。野球部の復活を熱望する声はいまだ根強くとも、その可能性は限りなくゼロに近い。

そして大阪の夏の風物詩だった花火大会も、2019年を最後に開催されていない。中止となった表向きの理由は「コロナ禍」だが、コロナ禍が明けても再開する気配はない。財政難に苦しむ教団からすれば、莫大な費用のかかる花火大会を中止する都合の良い口実となったことだろう。

いったいPL教団、そしてPL学園はなぜにここまで衰退してしまったのか――。

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