太平洋戦争末期、旧日本軍が最終手段として選んだ特攻作戦。静岡で結成され、その後、鹿児島に移った「芙蓉部隊」を率いた若き少佐がこの「特攻」に異議を唱えました。元隊員の証言や、その歴史を語り継ぐ取り組みをお伝えします。
敵の艦船に機体ごと体当たりする“特攻”。日本最大の特攻拠点だった鹿屋基地をはじめ知覧や万世など鹿児島から多くの特攻隊員が出撃しました。曽於市大隅町岩川にも基地が作られました。
ここにいたのは、芙蓉部隊。特攻を拒んで戦い続けた部隊でした。
芙蓉部隊の隊員だった山本卓さん 96歳です。
芙蓉部隊は静岡で結成され、その後岩川に移った夜間攻撃を専門とする部隊で、山本さんは16歳の頃、整備兵として隊に加わりました。
隊を率いていた美濃部正少佐からかけられた言葉を今も覚えています。
(元芙蓉部隊隊員 山本 卓さん・96歳)
「諸氏はよく来てくれた。うちは夜間戦闘機隊だ。だから夜間に耐える体力を錬成しろ。夜間に慣れてくれと」
戦況が悪化の一途を辿っていた1945年2月、旧日本軍の作戦会議で「総特攻」の方針が示されました。
そのとき、参加者の中で最年少だった29歳の美濃部少佐は末席から声を上げたのです。
(芙蓉部隊を率いた 美濃部 正 少佐)
『只一命を賭して国に殉ずるにはそれだけの成算と意義が要ります。同じ死ぬなら、確算ある手段を建てて戴きたい』
決死の覚悟で軍の方針に異を唱えました。
(元芙蓉部隊隊員 山本 卓さん・96歳)
「これはすごいことだよね。少佐って言うと集まった中で一番下じゃないですか。その中で一人反対して自分の部隊はこうだってことを言って3017ちゃんと自分の意見を言ってくれたということは、搭乗員もみんなそれは知っていましたね。俺はこの指揮官によってこうして攻撃ができるのだと」
美濃部少佐は、幹部に自分達の厳しい夜間訓練の様子を視察させ、特攻編制からの除外を認めさせました。
美濃部少佐が選んだ岩川基地はまだ敵に見つかっていない秘密基地でした。昼は機体を木や草で覆い滑走路に牛を放って敵の目を欺き、闇夜に紛れ沖縄に出撃し続けました。美濃部少佐は滑走路の脇で隊員の帰還を何時間も待ち続けていたと言います。
(元芙蓉部隊隊員 山本 卓さん・96歳)
「飛行場の周りに電気なんてないからね、ランプ。ランプに火をつけてそれで立つんですよ。(Q.帰ってくる人の目印ってこと?)そうです(Q.どういう気持ちで持っていた?)みんな帰って来てくれりゃええなと思って。出来たら全機帰ってきてくれりゃと思いましたね」
自らの信念を貫き通した美濃部少佐。その胸中を、長女の中野桂子さんは、「部下に無駄死にしてほしくない一心だったのでは」と推し量ります。
(美濃部少佐の長女 中野 桂子さん・80歳)
「ただ無闇にぶつかっていく特攻より、もっと他に何かいい方法がないかということは常に考えていたと思う。何かもっといい方法があるんじゃないか、何かもっとあるんじゃないかっていうのは、いつの場合も戦争に限らずずっと戦後でもそう」
戦後は航空自衛隊の育成に力を尽くした美濃部さん。芙蓉部隊の隊員と交流は続いたものの、家族や周りの人に当時の話をすることは殆ど無かったと言います。
(美濃部少佐の長女 中野 桂子さん・80歳)
「“生きてしまった”ということに対して、生きなければという思いで戦争してきたんでしょうけど、たくさんの方が亡くなっていて、だけど自分たちはこうやって生きていられるということに対する負い目というか申し訳なさというか、そういうものも、軍人って申し訳なさがあったんじゃないかと思う」
芙蓉部隊の戦没者は105人。遺された家族のことをずっと気にかけていたといいます。美濃部さんは亡くなる前、桂子さんに伝えたことがありました。
(美濃部少佐の長女 中野 桂子さん・80歳)
「私にも亡くなるときには、(それまで)あまり戦争の話はしなかったけど、いつか私にも、その『岩川に行ってお参りしてくれ』ということは言っていた」
桂子さんはその後、岩川で開かれる慰霊祭に足を運ぶようになりました。戦後80年。地元では有志による「岩川芙蓉会」が歴史を語り継ごうとしています。
終戦の年に生まれた前田孝子さんが芙蓉部隊のことを知ったのは30代になってからでした。地元にも知る人はほとんどいなかったといいます。手に入れた隊員名簿を頼りに全国の元隊員や遺族を探しました。
隊員は約1000人。電話をかけるだけで4年ほどかかりました。
(岩川芙蓉会 前田 孝子さん・80歳)
「ずっとたどっていって、この人はみつかったらマル、この人は連絡したけどだめだったとか印をつけていって」
元隊員や関係者から話を聞くなかで印象深かったのが、作戦会議で総特攻に反対した直後の美濃部さんの様子です。
(岩川芙蓉会 前田 孝子さん・80歳)
「顔を真っ赤にしてカンカンになって帰ってきたんだって。俺は貴様たちを特攻では絶対殺さんからなって開口一番言われた。隊員の方がすごいことを言う人だなーって。元隊員がお見えになったこともあるが、自分たちはこうして美濃部さんのおかげで子孫もいるでしょう、でもあの人たち(特攻隊員)はいないんだよって。どれだけ美濃部さんに感謝すればいいことかとおっしゃった」
芙蓉部隊がこの地に生きた証を遺したい。集めた遺影や遺品を5年前から曽於市の施設に展示しています。
(岩川芙蓉会 前田 孝子さん・80歳)
「岩川にそういう人がいて下さった、これは伝えないわけにいかんよね。やはり語り継いでいかないと、日本も今(戦争に)巻き込まれそう。心配でたまらない。子や孫には戦争をしてほしくない」
死と隣り合わせの戦火の中、信念を貫いた美濃部さん。周りに流されないその勇気を知ることが今、平和を守る礎となるかもしれません。
最終更新日:2025年8月1日 14:32
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