二人の「代表的西欧人」
ヨーロッパの文化が続々と流入してきた戦国時代、代表的な西欧人と言えば多くの人がフランシスコ・ザビエルを思い浮かべるでしょう。
また、かの『日本史』を著したルイス・フロイスのことが頭に浮かんだ人もいるかも知れません。
確かにこの二人は戦国時代の西欧人としてはビッグネームと言っても差し支えないほど有名です。しかし、二人が実はもともと親交があったことや、両者がどこで亡くなったのかなどは意外と知られていませんね。
今回は、この二人が日本とどう関わりながらどこで最期を迎えたのか、その足跡をたどってみましょう。
以前、筆者は、フランシスコ・ザビエルについてまとめさせていただきました。さて、ザビエルのあの独特なヘアスタイルですが、剥げているわけではあり…
朝鮮出兵の際、朝鮮側の女性や子どもたちは捕虜として日本に送還されました。日本での彼女たちは奴隷や帰化して日本に住む選択を強いられます。その中には本記事でご紹介する「ジュリアおたあ」もいました。…
まずはフランシスコ・ザビエルから。
「守護聖人」ザビエルとアジア
ザビエルが日本へ上陸したのは1549年(天文18)8月15日のことです。最初の上陸地は鹿児島でした。
なぜ鹿児島だったのかというと、マラッカで鹿児島出身の日本人ヤジロウ(アンジロウともいわれる)に出会い、日本での布教を思い立ったからでした。
それ以後、ザビエルは西日本各地を回ってキリスト教を布教していきます。そして、日本で二年間の歳月を過ごすと、当時のアジアにおけるイエズス会の拠点だった、インドのゴアへ帰国します。
一行はマラッカを経由して、翌1552年2月にゴアに到着。ザビエル本人は、イエズス会のインド管区長として働き始めました。そして、日本から同行させた四人の青年を司祭養成所である聖パウロ学院に入学させています。
その後、ザビエルは、日本でキリスト教を布教するためには日本に大きな影響力をもつ中国にキリスト教を広める必要があると考えるようになります。彼はゴア到着の二か月後にさっそく中国へと向かうと、粗末な住まいで布教の準備を始めました。
しかし、異国での不自由な生活の中で発病。その年の12月2日(3日という説も)に46歳の若さで永眠しました。
現在その遺体はボン・ジェズ教会に安置されています。1622年には教皇によって聖人に列せられ、現在、カトリック教会によってオーストラリア・ニュージーランド・ボルネオ・中国・東インド諸島・ゴア・日本の守護聖人とされています。
ルイス・フロイスと日本
次にルイス・フロイスですが、彼は16歳でイエズス会に入会。先述した、当時のアジア布教の拠点だったインドのゴアへ赴き、宣教師として養成されました。
このゴアでフランシスコ・ザビエルに会ったことで、彼の人生は決まります。フロイスも日本で布教活動を行いたいと考えるようになったのです。
彼が念願の日本上陸を果たしたのは1563年(永禄6)、31歳のときのことでした。長崎の横瀬浦に到着し、そこで日本語を学ぶと平戸から京都へ向かいます。
そして畿内で勢力を伸ばしつつあった織田信長の信任を得て、畿内での布教を許可をとりつけました。
来日して21年目の1583年(天正11)には、イエズス会から日本語の能力と文才を高く評価され、日本におけるイエズス会の活動記録を残すように命令されました。この記録が、のちに『日本史』と呼ばれて戦国時代の第一級の史料となります。
フロイスは、豊臣秀吉が1587年(天正15)にバテレン追放令を出したことで畿内には居づらくなり、長崎で暮らします。
そして1592年(天正20)、 再来日していたかつての上司ヴァリニアーノとともにマカオへ。三年後に再び長崎へやってきて 、1597年(慶長2)に長崎で亡くなりました。享年65歳でした。
二人の足跡を改めて辿ってみると、彼らがアジアでの布教に命を捧げたことが分かりますね。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:Wikipedias
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