黒田日銀は、長期金利をゼロ%程度に抑え込むために、多額の国債買い入れを行った。その結果、日銀の国債保有残高は約590兆円に達し、日本の一般政府債務残高の対GDP比率は、いまや257%(2022年実績見込み)と、先進国の中で断トツの高さにある。しかしながら緩みきった財政規律には回復の兆しはない。国民民主党が要求する「年収103万円の壁の解消」を実現しようとすると、国・地方で7兆~8兆円の税収が減り、さらなる財政悪化は不可避となる。はたして、このような野放図な財政運営で円の信認はいつまで保つことができるのか?
※本記事は山本謙三『異次元緩和の罪と罰』から抜粋・編集したものです。
日銀のバランスシートへの信認は続くのか
リスクにさらされるのは、日銀も同様である。図表8-7の現状の日銀バランスシートでは、巨額の日銀当座預金が計上されている。この当座預金は、金融機関にとって日銀に対する債権、日銀にとって金融機関に対する負債である。この日銀の負債に見合う資産は、バランスシートから分かるように国債である。これをどう考えるべきか。
先に述べたように、ある金融機関が日銀当座預金を手放すとしても、取引の相手方となる金融機関の日銀当座預金がその分増えることになるため、当座預金の総額は変わらない。唯一変わるとすれば、金融機関が当座預金を取り崩して現金(発行銀行券)を持ち帰る場合だけだが、この場合も、当座預金が、日銀の負債である「発行銀行券」に振り替わるだけなので、日銀の負債総額は変わらない。
だからといって、金融機関が、日銀の信用力と無縁に当座預金を持ち続けるわけではない。もし日銀の信用力が低下すれば、そのツケは、まず日本円の保有を回避しようとする圧力となって現れる。すなわち、為替市場で円安圧力が増す。先に、通貨に対する信認が閾値を超えることの危うさを述べたが、その段階で円相場が急落すれば、輸入物価(円建て)が高騰し、インフレ圧力が一挙に高まる。日銀の負債総額が変わらないからといって、楽観はできない。日銀に対する信認の崩れは、当座預金の減少という姿ではなく、通貨価値の下落となって現れる。日銀は、資産の健全性維持に常に神経をとがらせておかなければならない。
図表8-8は、日銀が量的緩和に入る前の、2008年3月末の日銀のバランスシートである。ここでも負債(当座預金や発行銀行券)に見合う主たる資産は、日本国債である。その点では、今のバランスシートと似ているが、内実は、まったく異なる。発行銀行券に見合う長期国債保有を除けば、その他の負債に見合う資産は短期国債や貸出金など、ほとんどが短期の資産だった。
従来、日銀は、買い入れる資産に対して、きわめて厳格な健全性の原則を適用してきた。具体的には、①信用力の高い資産であること、②元本の保証があり、償還期限のある資産であること、③原則として短期の資産であること、④市場流動性の高い資産であること(いつでも市場に売却できる資産であること)、などである。これらの条件を満たせば、理屈上は信用力の高い短期の社債や手形、さらに外国証券も買い入れ対象にできる。これらの原則は、ほとんどの国の中央銀行が採用しているものと同じだ。
なぜ、中央銀行はこのような厳格な原則を維持しているのだろうか。これは次のような事情による。
中央銀行の信用力の基本的な源泉は、国の信用力である。中央銀行が発行する銀行券は法定通貨(legal tender)として、法律により強制通用力を与えられている。また、中央銀行が債務超過に陥る場合、政府から増資を受けられるとの暗黙の了解がある。現行の日銀法で明示されているものではないが、常識的には、万が一の事態にあって、政府が中央銀行を支えないとは考えにくいので、増資を受けられると考えるのは自然だろう。この結果、中央銀行は、国の信用力に依拠し、少なくとも国と同等の信用力を得ていると考えられる。
しかし、中央銀行の信用力を支えるものは、それだけではない。中央銀行は、みずから定めた資産の健全性の原則を維持することで、国の信用力にプラスして独自の信用力を上乗せしている。原則に従う資産を買い入れ対象としていれば、いざという時には、短期のうちに市中から資金を回収して、為替相場の急落や物価の高騰を回避することができる。これが、短期で流動性が高く、かつ信用力の高い資産だけを保有していることの意味合いである。
中央銀行は、資産の健全性の原則が脅かされることのないよう、いくつかの制度的な仕掛けを用意してきた。財政ファイナンスの禁止や中央銀行の独立性維持といった制度設計は、そのためのものであるし、日銀はさらに前述の銀行券ルールも設けていた。
しかし、異次元緩和はこれらの原則を根底からひっくりかえした。財政ファイナンス酷似の国債買い入れによって、巨額の国債残高を抱え込むことになった。しかも、意図的に長期の国債を買い入れたために、約590兆円の国債の平均残存期間は6~7年に達している。中途売却は難しく、資産としての流動性も低下している。さらに、ETFのように元本保証のない資産も積極的に買い入れ、資産の一項目として計上している。「資産の健全性維持」の原則は大きく崩れた。異次元緩和の「異次元」たる所以ゆえんは、実は、資産の健全性の原則を崩した「異次元」性にあった。
米国FRBがイールド・カーブ・コントロールのアイデアを棄却したのも、まさしくこうした操作が財政ファイナンスにつながりかねず、中央銀行の独立性を脅かしかねないとの判断からだった。
幸い、日本国や日銀に対する信認はいまも厚く、いまのところ信頼が崩れる兆候は見当たらない。これまでの円相場の下落が信認低下を表すものではないかとの見方もないわけではないが、現時点では日米金利差を反映したものとみてよいだろう。
しかし、いつまでもこの状況に甘えているわけにはいかない。日本と日本円に対する信認は先人たちが脈々と築き上げてきたこの国の財産であり、これを次の世代に引き継ぐのが、私たちの世代の責務だろう。財政ファイナンスに酷似した買い入れで積み上げた国債残高をそのまま放置するわけにはいかない。
日銀は、24年7月に公表した先行き2年間の長期国債買い入れの減額計画にとどめるのでなく、正常化の完遂に向けた基本方針と長期ビジョンを早く示す必要がある。これらを明示せず、柔軟な姿勢を強調する限り、将来なし崩し的に国債の買い入れ再開に押し込まれるリスクが高まる。苦しい話だが、政治にも社会にも、日銀の考えを理解してもらう努力が必要だ。
本記事の抜粋元・山本謙三『異次元緩和の罪と罰』(講談社現代新書)では、異次元緩和の成果を分析するとともに、歴史に残る野心的な経済実験の功罪を検証しています。2%の物価目標にこだわるあまり、本来、2年の期間限定だった副作用の強い金融政策を11年も続け、事実上の財政ファイナンスが行われた結果、日本の財政規律は失われ、日本銀行の財務はきわめて脆弱なものになりました。これから植田日銀は途方もない困難と痛みを伴う「出口」に歩みを進めることになります。異次元緩和という長きにわたる「宴」が終わったいま、私たちはどのようなツケを払うことになるのでしょうか。
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