「幕末維新史探訪2025」のスタート
JBpressでの連載も、いよいよ5年目に突入となった。長期連載となったのは、読者の皆さまからの変わらぬご支持の賜である。心からの感謝を申し上げたい。
さて、令和7年(2025)がスタートした。昨年の「幕末維新史探訪2024」に引き続き、今回からは「幕末維新史探訪2025」をスタートさせたい。本年も、どうかよろしくお願いいたします。
慶応元年の象徴的な大事件・薩摩スチューデント
ところで、今年は慶応元年(1865)から、ちょうど160年という節目に当たる。その前年に当たる元治元年は、幕末維新史の中でも大激動の年であった。薩摩藩・島津久光の画策により、ようやく始まった参与会議があっけなく瓦解し、一橋慶喜が禁裏守衛総督・摂海防御指揮に就任した。
文久3年(1863)に惹起した八月十八日政変によって、京都から追放されていた長州藩は復権を図って率兵上京し、禁門の変を起こした。しかし、長州藩軍は薩摩藩・会津藩を主力とする官軍(幕府軍)によって撃退された。しかも、四国艦隊下関砲撃事件でも大敗し、さらに、第一次長州征伐へと発展し、長州藩は存亡の危機を迎えたのだ。
一方で、慶応元年は幕末の最終段階を迎える直前のタイミングであり、水面下で薩摩藩が長州藩に接近を試みているものの、取り立てて大きな事件などは起こっていない。そのような中で、薩摩藩は19人にも及ぶ密航留学生、すなわち薩摩スチューデントをイギリスに向けて送り出している。
今回は、薩摩スチューデントがどのように構想され、実現に移されたのか、そのキーマンである五代友厚を中心に3回にわたって、その実相に迫って見よう。
五代友厚とはどのような人物なのか?
五代友厚は、天保6年(1835)12月26日、薩摩藩士で儒者兼町奉行の五代直左衛門秀堯の次男として生まれた。幼名は徳助、才助、また松蔭と号した。長崎で航海、砲術、測量などの技術を習得し、文久3年(1863)7月に勃発した薩英戦争に参加した。
慶応元年(1865)、藩命により薩摩スチューデントとして渡欧し、各地を視察しながら、武器、船舶、紡績機械などの輸入を実現した。さらに、薩摩藩とベルギーの実質的な通商条約とも言えるベルギー商社の設立に成功するなど、薩摩藩の産業振興に大きく寄与した。加えて、特筆すべきは、薩摩藩が国家としてパリ万博(1867)に参加する道筋を作ったことであろう。五代はヨーロッパで、獅子奮迅の活躍をしたのだ。
ヨーロッパから帰国した五代は、主として長崎に滞在し、薩摩藩の富国強兵・殖産興業に尽力した。長州藩との連携にも異才を発揮しており、木戸孝允や高杉晋作とともに、下関を舞台とした商業活動を画策した。五代の幕末期の活動は、筆紙に尽くしがたい。
明治以降の五代友厚
大阪商工会議所の五代友厚像
維新後、新政府に外務・財務官僚として仕えたが、明治2年(1869)に会計官権判事を最後に退官した。その後、実業界に転じ、大阪を本拠として活躍を始める。金銀分析所、弘成館(買収鉱山の統括機関)、朝陽館(製藍工場)を設立するなど、実業家・政商として成功をおさめると同時に、大阪の産業の近代化に貢献したのだ。
さらに、大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪堂島米商会所、商業講習所(大阪市立大学の前身)の設立および指導に尽力し、大阪経済界の重鎮として、商工業の組織化、信用秩序の再構築に貢献した。なお、明治14年(1881)、開拓使官有物払下げ事件の中心人物として非難されてきた。しかし、五代は関与していなかったにもかかわらず、それを敢えて否定しなかった。現在に至り、ようやく冤罪であることが判明している。
五代は、明治18年(1885)9月25日、49歳の若さで没した。五代の短い生涯においては、主として明治以降の活躍が取り上げられがちである。しかし、繰り返しになるが、幕末期の五代の活躍も、想像をはるかに超えるものである。残念ながら、五代はその時代に活躍したメンバーの中に、なかなかその名前を見出せない。これは明治に入ってすぐに、政治家の道ではなく、財界人に転身したことによろう。五代がそのまま政治家を志し、もう少し長生きできれば、総理大臣も夢ではなかったと、個人的には確信している。
五代友厚と薩英戦争
イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘
話を幕末期に戻そう。五代は藩に重用され、文久2年(1862)に舟奉行副役に就任し、幕府艦千歳丸で上海に渡航して、汽船・武器を購入した。この時、長州藩の高杉晋作と同室になり、行動をともにしたことは周知のことであろう。
また、文久3年(1863)には、生麦事件によって発生した薩英戦争において、いてもたってもいられず、急遽長崎から鹿児島に戻り天佑丸船長として参戦したのだ。しかし、寺島宗則とともにイギリス海軍の捕虜となった。
寺島宗則
五代は潔く釈明を控えているが、おそらく、かけがえのない藩船の拿捕の責任を取ったことが考えられる。さらに、これ以降、イギリスがどのように薩摩藩に対して出てくるのか、そうした情報の収集もかねて居残ったものと考えたい。
五代らは横浜で解放されたが、簡単に捕虜になったことから、藩からイギリスとの密通の嫌疑を受けた。また、幕吏にも追われることとなり、江戸や武州熊谷での亡命生活を余儀なくされた。その後、寺島と別れて長崎に潜入し、ここで既知であったグラバーと再会した。彼らは、それまでに肝胆相照らす仲となっていたようだ。
次回は、五代が盟友グラバーの力も借りて書き上げた、薩摩スチューデントの派遣を含む上申書の内容について、詳しくご紹介したい。
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