大久保利通 暗殺事件の犯人が残した「斬奸状」の五つの罪状、実は100%誤解と間違いだった | きばいやんせ!鹿児島

大久保利通 暗殺事件の犯人が残した「斬奸状」の五つの罪状、実は100%誤解と間違いだった

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斬奸状の「五つの罪」

一八七八年、東京・紀尾井坂で起きた一つの暗殺事件は日本の近代史に大きな傷を残しました。

大久保利通が、石川県の士族である島田一郎らに襲われて命を落としたのです。テロです。

大久保利通の哀悼碑

犯人たちは斬奸状と呼ばれる文書を残し、なぜ大久保を殺さなければならなかったのかを説明。その文書に書かれていたのは五つの罪でした。

①公議を閉ざし民権を抑圧した
②法令を乱発し情実政治を行った
③不要な土木事業で国費を浪費した
④忠節の士を排斥し内乱を誘発した
⑤外交に失敗し国権を失墜させた

これらの罪状は、当時の多くの士族が感じていた不満を代弁しているようにも見えます。

しかし、実際にはの内容はまったくの的外れで、ほぼ100%間違っていると言っても過言ではありません。

言い方を変えれば、斬奸状の内容を「裏返して」みると、反対に大久保利通の業績が浮かび上がってくるのです。

今回は、この斬奸状の内容を「裏返して」みる形で、彼の生前の業績について振り返ってみましょう。

国政に尽くした改革者

まず、大久保が「私利私欲の政治家」だったという批判ですが、ここからして全くの間違いです。大久保は政治を私物化することなく、むしろ私財を投げ打って国政に携わっていました。

彼が亡くなった後、遺された財産を調べてみるとほとんど残っていなかったのです。

大久保利通(Wikipediaより)

次に「土木を興し国財を徒費する」という批判も、実態とは違っていました。大久保が推進したのは、日本を近代国家にするための内治整理殖産興業でした。

欧米列強に追いつくためには、道路や工場、学校などの基盤を整えなければならなかったのです。これはむしろ、未来への投資でした。

たとえば、今でこそ当たり前になった電信線の建設や工場の設立なども、大久保の時代に本格的に始まったものです。

これらは当初は不要な土木事業だと批判されましたが、なくてはならない近代化の第一歩だったのは、今の時代から見れば明らかです。

また大久保が「忠節の士を排斥した」と批判されたのは、士族の特権を廃止したためでした。

刀を持つことを禁止する廃刀令や、士族の俸禄を整理する秩禄処分などは、封建制度を終わらせるための必要な政策でした。

しかし、これらの改革は古い体制に守られていた士族たちの反発を買い、「忠節の士を疎かにした」と受け止められたのです。

西郷の死がもたらした影響

大久保利通は確かに強引な手法を取ることもありましたが、彼が目指していたのは専制国家ではありませんでした

むしろ、大久保はイギリス型の立憲君主政と産業国家を理想としていたのです。

イギリスは、島国ながらも工業力で世界の大国になっていました。大久保は、この日本にも同じような道を歩ませたかったのです。

大久保は一八六八年から三〇年間の国家計画を立てていました。「創業期」「内治整理・殖産興業期」「守成期」の三段階に分け、段階的に近代国家を築こうとしたのです。

これは、急いで結果を出すのではなく、しっかりと基礎を作ってから発展させるという、長い目で国を見据えた計画でした。

ではなぜ、ここまでやってきた大久保の評価が決定的に悪くなってしまったのでしょうか。その大きなきっかけとなったのは、西郷隆盛の死です。

上野公園の西郷隆盛像

士族たちに人気のあった西郷が西南戦争で敗れて亡くなったことで、大久保は維新の賊臣と呼ばれるようになりました。

人々は、武士の理想像である西郷と、現実的な政治家である大久保を比較して後者を悪者にしたのです。

結局のところ、斬奸状に書かれた五つの罪は、大久保利通が推進した近代化政策の「裏返し」にすぎなかったのです。

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