島津が天下を取る可能性もあった…!? 九州攻めを終えた豊臣秀吉が漏らした本音「日本には馬鹿が2人いる」 | きばいやんせ!鹿児島

島津が天下を取る可能性もあった…!? 九州攻めを終えた豊臣秀吉が漏らした本音「日本には馬鹿が2人いる」

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豊臣秀吉が休んだ地とされる「秀吉の腰掛け石」=伊佐市大口鳥巣の二反田孝男さん宅

 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」が1月に始まり、天下人豊臣秀吉と弟の秀長に注目が集まっている。2人は天正15(1587)年の九州攻めの際に南九州まで侵攻。対抗した島津氏は大軍に押され、当主義久が鹿児島県薩摩川内市の泰平寺で秀吉に降伏した。薩摩川内市、さつま町、伊佐市の3市町に残る「秀吉の道」を歩き、ゆかりの場所や資料を紹介する。(連載「探訪 秀吉の道⑦」より 全7回)
 伊佐市大口鳥巣園田の県道湯出大口線沿いに水生植物園の看板と秀吉の腰掛け石の標柱が立つ。案内に従って進むと民家の庭の隅に160センチほどの石碑がある。二反田孝男さん(85)宅の敷地内で、立ち入り自由で休憩所もある。
 豊臣秀吉は新納忠元との会見を終え、天正15(1587)年5月27日朝、京に向け天堂ケ尾を出発。忠元は会見のお礼としてここで見送った。秀吉は、かごを止め、忠元を近くに招いて陣扇を与えた。その際、秀吉がこの地に座って休んだと伝えられている。
 秀吉はこの前に、曽木の滝に寄ったとの逸話もある。忠元の案内で高さ10メートル以上ある崖の上から滝つぼの渓流を見ることを勧められた。忠元が突き落とし殺害しようとの考えを見抜き、忠元の袖をしっかり捕まえて体をすり寄せたという。
 菱刈郷土資料館の原田純一専門指導員(77)は信ぴょう性を疑問視する。九州攻めは秀吉の本隊だけでなく複数に分かれ、総勢30~40万人ともいわれる。「影武者もいただろう。伊佐市内で史実と断定できるのは天堂ケ尾関白陣跡と腰掛け石などで、ほかははっきりとした確証が得られない伝承との位置づけ」と語る。
 薩藩旧伝集によると、秀吉は京に帰着後、側近に「日本には馬鹿が二人いる」と言った。一人は秀吉自身で、遠い南の国まで攻めて食料も尽き果て、地理的にも不利。危うく負け、生きて帰れなかったかもしれないから。もう一人はこのことを知らずに降伏した島津義久という。
 原田さんは「忠元はこの状況をいち早く見抜き、大口城に立てこもって決戦を待っていた。恐るべく知略を持っていたことが分かる」と話す。
 当然、島津義久も忠元と同様の考えがあったはずだが、なぜ降伏したのか。九州攻めを機に島津氏の家臣団に分裂が生じ、服属していた九州各地の領主らが相次いで離反しており、権力構造の弱さを露呈した。
 徹底抗戦し惨敗した場合、改易か取りつぶしのおそれもある。原田さんは「降伏してもともとの地盤である薩摩、大隅、日向の安堵(あんど)を図り、秀吉の強大な権力を背景に島津氏の大名権力強化を図った」と見ている。
=おわり=

新納忠元座像(伊佐市教育委員会提供)

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