戦前に完成した一大事業「八紘一宇の塔」が今も宮崎県にあるのをご存知ですか

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神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか? 
右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。
歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。
※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。

宮崎県の事業で建てられた「八紘一宇の塔」

まずは、舞台を宮崎市に移そう。

第1章で、2020(令和2)年にJR宮崎駅の西口が高千穂口、東口が大和口と改称されたと述べた。天孫降臨があったとされる場所(高千穂町もしくは霧島山)は宮崎駅の西にあり、そして神武天皇がめざした大和は東にある。ここまで読んでもらえばわかるように、まさに神話を踏まえたネーミングだった。

その宮崎駅から北に約4キロ進むと、現在、平和台公園と呼ばれる場所があり、その標高60メートルの丘陵に、高さ約37メートルの巨大な塔がそびえたっている。いわゆる八紘一宇の塔である。正式には、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)という。宮崎市は高い建物が少ないので、遠くからもその偉容を拝むことができる。

その歴史は、1937(昭和12)年7月、相川勝六(あいかわかつろく)が宮崎県知事に就任したところからはじまる。

戦前、県知事は公選制ではなく内務官僚が代わる代わる務めていた。相川も朝鮮総督府の外事課長を経て、人事異動で宮崎県に赴任してきた。大東亜戦争下には、小磯国昭(こいそくにあき)内閣の厚生大臣などを務めることになるエリートだった。

相川は、きたる皇紀2600年の奉祝事業に宮崎県も積極的に関与すべきだと考え、1938(昭和13)年、県の事業で宮崎市の皇宮屋(こぐや)に記念塔を建てる計画を発表した。皇宮屋は、神武天皇の宮跡とされる地で、八紘之基柱の約700メートル南に位置する。

これを受けて、設計者として白羽の矢が立ったのが日名子実三だった。その名前には聞き覚えがあるかもしれない。やはり第1章で、八咫烏をかたどった支那事変従軍記章をデザインしたとして取り上げた彫刻家だ。

記念塔はやがて八紘之基柱と正式に名付けられ、建設地も現在の丘陵地(当時は八紘台と呼ばれた)に定められた。そして1939(昭和14)年5月に着工、のべ6万人の奉仕作業により完成し、翌年11月、高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)親王(昭和天皇の次弟)臨席のもとで竣工式が執り行われた。

八紘之基柱はその特徴的な姿から、1942(昭和17)年発行の四銭切手、また1944(昭和19)年発行の10銭紙幣のデザインに採用された。そのため、大東亜戦争下でもっとも広く知られたモニュメントのひとつとなった。

秩父宮が染筆した「八紘一宇」

八紘之基柱は、約2メートルの石組みの基壇と、その上にそびえる鉄筋コンクリート造の柱(表面は石張り)からなり、柱中腹には信楽焼の彫刻が四隅に並べられている。

柱の部分は、まるで鱗がいくえにも重なったようなデザインで、先端にいくほど細くなっていく。

日名子いわく、鱗状のものは、神主がお祓いのときに使う幣束と、神武天皇の軍勢が用いた楯をイメージしており、重なった部分は、天地開闢のときに神々が生成した感じをあらわしているという。

柱の正面には銅製の扉があり、神武天皇が船出する様子をあしらっている。その上部には、2種の神器をデザイン。そして厳室いつ むろと呼ばれる内部の空間には、8枚の石膏レリーフが配置されている。

そのうち2枚は、日本を中心とする東半球の図(大東亜の図)と、南米大陸を中心とする西半球の図(南米大陸の図)。残りの6枚は、神話から歴史を描いたもので、時系列で並べると、「国土奉還」「天孫降臨」「鵜戸(うど)の産屋」「紀元元年」「明治維新」「紀元二千六百年(もしくは民族協和)」となる。「国土奉還」は国譲り神話、「鵜戸の産屋」は神武天皇の父ウガヤフキアエズの誕生譚を指す。

かつてこの空間の正面には、秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王(昭和天皇の長弟)が越前鳥子紙に染筆した八紘一宇の書が掲示されていた。だが敗戦後、近くの宮崎神宮(旧官幣大社、祭神は神武天皇)に移されて現在も還ってきていない。

そとに戻って、柱の周りをぐるっと歩いて四隅の信楽焼を仰ぎ見てみよう。荒御魂(あらみたま)、和御魂(にぎみたま)、奇御魂(くしみたま)、幸御魂(さきみたまの四体で、それぞれ古代の武人、商人、漁人、農人の姿で周囲を睥睨(へいげい)している。

いかにも純和風のようだが、現在では、日名子が昭和初期にヨーロッパに留学したときに見物したドイツ・ライプツィヒの「諸国民の戦い記念碑」に影響を受けたのではないかとも指摘されている。

この記念碑は、ナポレオンを打ち破ったライプツィヒの戦い100周年を記念して、1913(大正2)年に建てられたもので、中央に立つ記念碑のまわりに大天使ミカエルの彫刻などが施されている。ただし規模は壮大で、高さは91メートルもある。

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それはともかく、八紘之基柱でひときわ目を引くのは、やはり柱の中央に刻まれた八紘一宇の文字だろう。さきほどの秩父宮の染筆にもとづくもので、いまでは黒ずんでいる柱にあって、この文字の部分だけが異様に白っぽい。これは、敗戦後の1946(昭和21)年にいったん削り取られて、1965(昭和40)年に復元されたためだ。

同じように、信楽焼の像のうち、武人をかたどった荒御魂も撤去されたものの、1962(昭和37)年にやはり復元された。

世界中から集まった切石

目立っていただけに、戦後この塔の処置に困った様子が浮かび上がってくるが、それよりもこの塔の性格をよくあらわしているのは基壇部分。近づいてみると、切石のひとつひとつに団体名が記されている。

「広島県教育会」「海軍協会山形支部」「愛婦本郷第三分会」「朝鮮総督府」「台湾総督府」「満洲国奉天市」「南支飯島藤田隊」「第六師団司令部」「香港日本人会」「南米秘露ペルー日本人会」「独逸採石工業会社」──。

日本国内のものがいちばん多いが、植民地や勢力圏からのもの、陸軍部隊からのもの、そして在外日本人団体からのものも含まれている。じつは八紘之基柱を建設するにあたり、相川知事のアイデアで「皇威」の及ぶ範囲より広く石材が集められたのである。

一県の事業なのに? そこがこの知事のやり手なところだった。そもそも八紘之基柱については、当初より大阪毎日新聞をバックにつけていた。同紙は、ライバルの大阪朝日新聞が橿原神宮の整備計画を支援していたので、宮崎県のほうは自社で押さえようとしたのだ。

両紙はそれぞれ、現在の毎日新聞、朝日新聞にあたる。ともに大阪発祥のメディアで、戦前を代表する二大紙であり、熾烈な部数競争を繰り広げていた。

こうしたメディア・キャンペーンもあり、切石は全国各地より集まった。また相川知事は、交友のあった板垣征四郎(いたがきせいしろう)陸相にも協力を依頼して、最前線の部隊からも石材を送ってもらった。最終的に集められた切石は、なんと1789個に及んだ。

切石の出どころはかなりの部分が特定されており、なかには中国人の墓石を切り出したものまであるという。

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世界中に点在する日本人から広く集められた石材でできた記念塔は、まさに八紘一宇を体現するものだった。そしてその一部が戦地から掠め取られたものだったという点も、この理念のもとに実際なにが行われていたかを物語ってあまりある。

相川知事はその完成をみることなく広島県知事に転任していったが、戦後は宮崎市を選挙区に含む自民党の代議士を長く務めた。そのため、八紘之基柱がやがて平和の塔と呼ばれ、1964(昭和39)年、東京オリンピックで聖火リレーの起点となったことも、身近で目撃することとなった。

さらに連載記事<靖国神社は「上から7番目」…日本人が意外と知らない「神社には序列がある」という「驚きの真実」>では「戦前の日本」の知られざる真実をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。

*本記事の抜粋元・辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書)では、「君が代はなぜ普及したのか?」「神武天皇によく似た「ある人物」とは?」「建国記念の日が生まれた背景とは?」……といった様々なトピックを通じて、日本人が意外と知らない「戦前の日本」の正体を浮き彫りにしていきます。「新書大賞2024」で第7位にランクインした、「ためになる」「わかりやすい」と話題のベストセラーです。

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