日本人のルーツは「九州にいた海の民」だった!? “日本人の母”とは何者なのか【古代史ミステリー】

九州に「降臨」した天皇の祖先は、ヤマツミの娘(縄文人)やワダツミの娘たち(海人族)と婚姻関係を結びながら、九州南部に勢力を広げていった。とくに、豊玉姫(とよたまひめ)・玉依姫(たまよりびめ)という二人の海人族の娘と結ばれたことの意味合いは大きい。縄文晩期に中国南部から海人族が渡来して日本中に広まっていたことを踏まえれば、豊玉姫こそ「日本人の母」と呼んでも良いのではないか…と思えてならないのだ。


■天皇の祖先の上陸地は、九州最南端?!

『日本書紀』によれば、天皇の祖先は「高千穂の峯」に降臨した。降臨の地を宮崎県高千穂町と見なすか、宮崎県と鹿児島県の県境にそびえる高千穂峰と見なすか激論が戦わされ続けている。

 しかし、場所としては九州中〜南部であることには変わりない。九州北部には先住の海人族が開拓し尽くしていたため、新たな耕作地を得ることができなかったからであろう。これが、後に邪馬台国連合国に発展したものと筆者は睨んでいるが、果たして?

 ちなみに、ここで「降臨」と記されてはいるものの、それは単なる表記の問題だけで、実のところは、船に乗ってやって来たと思われる。降臨の地が両者のうちのいずれであったとしても、九州中南部のどこかの港に上陸したことは容易に想像できそうだ。

 実はそれを証明するかのような伝承が、鹿児島県野間半島に伝わっているのをご存知だろうか? それが南さつま市の海沿いの一角で、 ニニギノミコトが上陸したことを示す石碑が置かれている場所が上陸地だったとか。ともあれ、ニニギノミコトはこの地で、先住の縄文人と思しきオオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメと出会って結婚。ホノスソリノミコト(海幸彦、隼人の祖)、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)、ホノアカリノミコト(尾張氏の祖)が生まれたことになっている。

 出産の際に竹刀でヘソの緒を切ったとも伝えられているが、その地を示すかのような竹屋なる地名が残っているというのも、曰くありげで興味深い。

 その後、塩土老翁というワタツミ(海人族)の助力を得て、弟の海幸彦が兄の山幸彦を攻略。塩土老翁の娘・豊玉姫(とよたまひめ)と結婚して生まれたのが、後の神武天皇の父・ウガヤフキアエズであった。

 ただし、出産時に豊玉姫は八尋鰐(やひろわに)の姿に戻ってしまったところを夫に見られたことを恥じて、我が子の養育を放棄。妹の玉依姫(たまよりびめ)に託したとのお話も、よく知られるところである。

■日本人は海人族の血がより濃厚に流れている?!

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南さつま市の海岸に置かれたニニギノミコトの上陸地を示す石碑/撮影・藤井勝彦

 ともあれ、出産の地としてよく知られるのが、宮崎県日南市の鵜戸神宮だ。その後、ウガヤフキアエズが育ての親である玉依姫と結ばれて生まれたのが、カムヤマトイワレノミコトこと、後の神武天皇であった。

 ちなみに、ウガヤフキアエズが亡くなったのは西洲の宮で、伝承地は鹿児島県肝属郡肝付町にある桜迫神社。さらに、カムヤマトイワレノミコトが生まれたのは狭野で、現在も宮崎県高原町に狭野神社として地名が残っている。

 周辺には皇子原や御池といった地名まで残っているのも見逃せない。その他、ニニギノミコトの陵墓(可愛山稜)が薩摩川内市内にあることも含め、日向四代ゆかりの地が、ことごとく九州南部に比定されているというのは、やはりこの地が、天孫族の本拠地だったことの証と言うべきかもしれない。

 前述のような婚姻関係を踏まえてみれば、天孫族の起源が仮に朝鮮半島であったとしても、初代・神武天皇には、ヤマツミ系の縄文人とワダツミ系の海人族の血も濃厚に受け継いでいることになりそう。とくに豊玉姫と玉依姫の二人の海人族の娘と結ばれたことの意味合いは大きく、海人族の血の方が濃いとも考えられそうである。

 縄文晩期に東南アジアから渡来して来た人々の多くが海人族で日本中に広まっていたことも含めて考えれば、天孫族はもとより、庶民に至るまで、海の民の血がより濃厚に受け継がれていたことは間違いなさそう。

 極言すれば、「日本人の母は豊玉姫だった」と言っても良いのではないか? そんな気がしてならないのだ。

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