征韓派と内治派
明治時代を学ぶ上で、重要となるキーワードに「征韓論」があります。今回はこの征韓論についての最新の学説をご紹介します。
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西郷と大久保をとりまく薩摩藩の内部事情薩摩の西郷隆盛と大久保利通といえば、二人して討幕に奔走し、明治政府樹立を成し遂げた立役者です。二人は、生まれた時から家も近く、幼馴染であり無二の親友でした。
一般に、征韓論あるいは征韓論争といえば、士族の不満をそらせるために「征韓すべし」と主張する西郷隆盛や板垣退助の「征韓派」と、それに反対する「内治派」が対立した論同だと思われています。
内治派は、まずは日本国内の近代化が優先事項であり対外進出している場合ではない、という主張です。大久保利通や木戸孝允がこちらに与していました。
問題は、この征韓という言葉です。基本的にこの言葉は「韓国を征服する」つまり植民地化を目指す侵略の論理だと解釈されがちですが、本当にそうなのでしょうか。
結論を先に言えば、この解釈は現在は誤解だと考えられています。この誤解は、「征」と「韓」という言葉の組み合わせにあるのでしょう。文字遣いからいって、韓国を征服する理論と受け取られても仕方ありません。
問題は、西郷隆盛と板垣退助の説いていた「征韓」のニュアンスの違いです。
武力行使は「もってのほか」
明治維新では、倒幕について功績があった武士(士族)たちが、時代の変化の中で特権を失って政府に不満を持つようになりました。征韓論には、その不満を逸らせる目的があったとよく言われます。
実際、共通の敵を作って国内の統合を図るという政策が、国外進出と結びつくことは世界史的に見ても珍しくありません。
そして、板垣退助の説く征韓論はまさにこれでした。一方で、西郷隆盛の考えていた「征韓論」には少しニュアンスの違いがありました。
もともと西郷は、朝鮮に対して「旧来の儀礼にもとづいて」使節を派遣し、場合によっては自分が使節として向かってもいいと主張していました。
旧来の儀礼とは江戸時代の日朝関係、つまり朝鮮通信使の時代の外交のことで、このやり方でまずは朝鮮と接しようと考えていたのです。その上で朝鮮を開国させ、それに応じない場合は武力行使もやむなし、という考えていたんですね。
西郷隆盛を、征韓論を唱えた中心人物であるかのように説明することも問題があります。使節として朝鮮に行くのは交渉であると断言していますし、「軍隊を派遣する」などとは発言していません。
むしろ西郷は、武力行使すべしと主張する板垣退助らをたしなめていました。板垣は軍隊を釜山に上陸させる案を出しますが、「そんなことをしたら朝鮮の人々が誤解する。派兵などもってのほか」と、その意見を退けています。
さらに、三条実美までもが「西郷が大使として行くなら軍艦に乗って兵を連れていけ」という申し出をしていますがこれも拒否しているのです。
征韓論について言えば、西郷はむしろ軽率な武力行使について反対していたと言うべきです。彼に強引な主張があったとすれば、あくまで自分が大使として行くのだ、と考えていたことに限られます。
このように、いわゆる「征韓論者」でも考え方のニュアンスは微妙に違っていました。こうした違いは、内地派の方にも存在していました。
内治派も一枚岩ではなかった
明治新政府は、あくまでも近代的な国際法に則って国際関係を結び、東アジアの外交関係を再構築しようとしていました。
この考え方と比べてみると、先述の西郷の考え方は時代遅れであり、さらに言えば政府の方針に反するものでもありました。
このように、あくまでも近代的な国際法に則って国際関係を結ぼうと考えていたのは大久保利通です。彼は国内政治の近代化だけではなく、外交の近代化も目指していました。
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ところで、先に大久保と木戸孝允は「内地派」だったと述べましたが、二人の考え方も微妙にニュアンスが異なっていました。
その後、大久保は征韓論を否定しながらも、1874(明治7)年には台湾に出兵しています。木戸はこの大久保の矛盾に憤り、「先に征韓に反対しておきながら、征台をおこなうとは道理に合わぬ」と怒り、一時政府の要職を辞めてしまいます。
大久保は、必ずしも内政を重視するから対外進出しない、とは考えていなかったのです。
ちなみにこれも重要なことですが、1875(明治8)年には、大久保が主導する明治政府は江華島事件を起こし、これをきっかけにして翌年、日朝修好条規を結ぶことにこぎつけています。
よって、このような後の展開を考えると、「征韓派と内治派」という単純な二分類は適切ではないことが分かるでしょう。
これまで征韓派と考えられていた人たちが、全員武力行使を前提としていたわけではありません。そして内治派もまた、派兵による国際関係の構築を全面否定していたわけではないのです。
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