世界最古の王朝とされる日本の皇室のルーツはどこにあるのか。瀧音能之(監修)『最新考古学が解き明かすヤマト建国の真相』(宝島社新書)より、一部を紹介する――。
「初代天皇」は誰なのか
これまで大阪公立大学大学院文学研究科教授の岸本直文氏が分析したオオヤマト古墳群の6基の前方後円墳のうち、箸墓古墳、桜井茶臼山古墳、西殿塚古墳の3基について解説してきた。ここまでが倭王権時代の神聖王と執政王にあたる大王である。絶大な力を持った桜井茶臼山古墳に埋葬された執政王によって、威信財の国産化が進められ、資源開発が進められた。これによって266年以降に朝貢が行われなくなった。執政王の地位は向上し、神聖王と並ぶ権威と権力を持ったと考えられる。
そして台与を最後に、神聖王と執政王のいずれの大王も男性が立てられるようになった。主系列の箸墓古墳(卑弥呼)、西殿塚古墳(台与)の次に造営された神聖王の前方後円墳が、10代崇神天皇陵に比定されている行燈山古墳である。崇神天皇の和風諡号は「御肇国天皇(ハツクニシラス天皇)」というもので、初代神武天皇の和風諡号も同じ読みの「始馭天下之天皇(ハツクニシラス天皇)」となっている。「ハツクニシラス天皇」は「最初に国を治めた天皇」という意味である。『日本書紀』崇神天皇条の記述の多くは、纒向遺跡に近い三輪山関連のものが多い。また崇神天皇の宮は、「磯城瑞籬宮」とされ、三輪山の山麓にあったと考えられる。考古学的な成果と『日本書紀』の記述との一致から、崇神天皇を実質的な初代天皇(大王)とする見方が多い。
卑弥呼・台与の事績は崇神天皇に集約された
崇神天皇は、「崇神」の諡号の通り、神祀りに関連する記事が多くある。『日本書紀』崇神天皇5年条には、災害や疫病によって国が荒廃したことがあり、同7年条にはモモソヒメが神懸かりし三輪山に出雲の神であるオオモノヌシを祀るように告げ、これによって疫病は収まったとある。三輪山へのオオモノヌシの祭祀の開始は、3世紀中頃にあった出雲の倭王権への参画を象徴的にあらわしているようにも読み取れる。
箸墓古墳はモモソヒメの陵墓とされることから、モモソヒメ=卑弥呼とする説が根強くある。中国では、女性が首長となることは蛮族の風習とされていた。『日本書紀』の編纂には日本が文明国であることを対外的(特に中国)にアピールする意図があったことから、卑弥呼や台与について記述しなかったのではないか。抹消された卑弥呼や台与の女性神聖王の事績を3代目神聖王である崇神天皇に集約したとも考えられる。
4人の「皇族将軍」を各地の征討のために派遣
卑弥呼・台与時代の事績は10代崇神天皇に集約されたことを前述したが、『日本書紀』の記述では崇神天皇は神聖王という以外に執政王としての顔も持つ。モモソヒメの神懸かりと三輪山へのオオモノヌシの祭祀ののち、『日本書紀』崇神天皇5年条には、崇神天皇が4人の皇族将軍を各地の征討のために派遣している。7代孝霊天皇の皇子・キビツヒコは西海道(吉備)、8代孝元天皇の皇子・オオヒコは東海道(東海地方)、その子のタケヌナカワワケは東海道(東海地方)、9代開化天皇の孫・タニハノミチヌシは丹波道(タニハ)をそれぞれ担当した。四道将軍は7代から9代までの天皇の皇子や孫であり、4世代の幅がある。このことも倭王権時代の事績が崇神天皇に集約されていることがうかがえる。
四道将軍の派遣先は、倭王権時代からの勢力範囲であり、有力な地方勢力がいたエリアである。桜井茶臼山古墳の被葬者は、全国からさまざまな物資を集積し、威信財などの国産化を進めたが、こうした人物像は四道将軍の派遣に重なる。
崇神天皇(写真=三英舎発行『大日本帝紀要略』/PD-Japan/Wikimedia Commons)
「国譲り」を彷彿とさせるエピソード
中でも注目されるのが、キビツヒコだ。キビツヒコの姉には卑弥呼ともされるモモソヒメ、弟には吉備氏の祖先とされるワカタケヒコがいる。キビツヒコは、四道将軍の中で最も古い世代であり、モモソヒメの弟、さらに吉備と関係性が深い人物である。これらからキビツヒコは卑弥呼の男弟、すなわち初代執政王であり、桜井茶臼山古墳の被葬者だったのではないだろうか。
さらに崇神天皇60年条には、国譲りを彷彿とさせるエピソードがある。出雲のイイイリネは、兄・イズモフルネの不在中に大和の使者に出雲の神宝を渡してしまった。これに兄・イズモフルネは怒り、弟を殺害した。これに対して、崇神天皇はキビツヒコとタケヌナカワワケを出雲に派遣し、イズモフルネを誅殺したという。これらの記述は、出雲に国譲りを迫った2柱の武神と、国譲りへの対応が分かれたコトシロヌシ・タケミナカタ兄弟のエピソードと重なる部分が多い。
8世紀に編纂された『日本書紀』において、古代の二重統治体制は都合が悪いものだった。そのため、初代執政王の事績は、卑弥呼・台与と同様に崇神天皇に集約されたのだろう。
抹消された大王の痕跡
四道将軍が7~9代の天皇の皇子あるいは孫である点にも注目したい。初代神武天皇と10代崇神天皇が同じ「ハツクニシラス天皇」という和風諡号を持っていたことを前述した。この間の2~9代の8人の天皇は、『日本書紀』において極端に記述が少ないことから、実在性を疑われ「欠史八代」と呼ばれる。実在性を疑われる根拠の1つが、欠史八代の和風諡号と後世の天皇の和風諡号に共通点が見られる点だ。
中でも特に創作が疑われるのが7~9代の和風諡号で、これらは43代元明天皇と44代元正天皇の和風諡号と共通する「ヤマトネコ」が付けられている。元明天皇と元正天皇は母娘の関係でともに女帝で、元正天皇の時代に『日本書紀』が完成している。このことから、7~9代の天皇の実在性は欠史八代の中でも低いと考えられる。
この欠史八代の系統に属するのが、モモソヒメ(神聖王・卑弥呼)と四道将軍(執政王)である。彼女・彼らは臣下である皇族として記される一方で、大王だった名残として7~9代の天皇が創作されたのではないか。モモソヒメと四道将軍は『日本書紀』から抹消された大王だったとも考えられるのだ。
出所=『最新考古学が解き明かすヤマト建国の真相』(宝島社新書)
「日本書紀」に記された埴輪の由来
主系列(神聖王)の10代崇神天皇陵(行燈山古墳)の少し前に造営されたのが、副系列のメスリ山古墳である。自然に考えれば、メスリ山古墳の被葬者が、崇神天皇時代のもう1人の大王(執政王)ということになる。
メスリ山古墳は墳丘長約224メートルの巨大前方後円墳で、陵墓に指定されていないことから過去に大規模な発掘調査が行われた。2代目の執政王と考えられるメスリ山古墳の被葬者は、威信財の国産化と創造を行った桜井茶臼山古墳の被葬者の跡を継いだ存在であり、それに相応しい出土品が出ている。
後円部の埋葬施設からは、方形に取り囲む埴輪列が確認された。国内最大の高さ約2.1メートルの大型円筒埴輪が要所に配置され、その間を結ぶ線上に円筒埴輪と高杯形埴輪が合計106点も配列された。技術者集団による埴輪の大量生産が行われたことがうかがえる。また桜井茶臼山古墳から出土した玉杖がメスリ山古墳からも出土している。
崇神天皇の次の11代垂仁天皇の時代になるが、埴輪の由来について『日本書紀』に記されている。同書垂仁天皇28年条には、垂仁天皇の弟のヤマトヒコが亡くなった際、殉死の禁止令を出した。その4年後の同書32年条には、皇后のヒバスヒメが亡くなった際に殉葬の代わりに埴輪が考案されたとある。垂仁天皇とヤマトヒコの母である崇神天皇の皇后はオオヒコの娘・ミマキヒメで、垂仁天皇の皇后のヒバスヒメは四道将軍の1人であるタニハノミチヌシの娘である。つまり、埴輪誕生にはいずれも四道将軍の系統の人物の埋葬が関わっていたことになる。メスリ山古墳から出土した大量生産された円筒埴輪からも、その被葬者が四道将軍と関連が深い人物と考えられる。
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