西郷隆盛と大久保利通は、明治維新を成功に導いた盟友として知られています。しかし、二人の関係は1873年の「明治六年の政変」を境に決裂してしまいます。
この政変は、一般的には「征韓論」を巡る対立がきっかけとされていますが、その背景にはもっと複雑な要因がありました。
今回は、二人の対立から決裂までの様子を、わかりやすく解説します。
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「征韓論」と西郷の考え
一般的には、西郷隆盛が「征韓論」を提唱したとされていますが、実際には彼が望んでいたのは朝鮮との平和的な国交回復でした。当時の朝鮮は、西欧化する日本を軽視する態度をとり、日本の国書を拒絶するなどの行動を続けていました。
この状況を受け、西郷は自らを全権大使として朝鮮に派遣し、対話によって問題を解決しようと提案したのです。
彼の意図は、暴力ではなく、外交を通じた関係の構築にありました。武力行使は最終手段とし、あくまで平和的な解決を目指していたのです。
大久保利通の懸念と反対
一方、大久保利通は西郷の派遣に強く反対しました。彼は岩倉使節団の一員として欧米諸国を視察し、その国力の違いを目の当たりにしていました。その経験から、大久保は「まず日本の国力を高めることが最優先」と考え、戦争を避けるべきだと主張したのです。
さらに、大久保は朝鮮の背後に清国やロシアといった大国の存在を見ており、戦争が日本の国家存亡を危うくする可能性を懸念していました。彼にとって、対外政策での慎重さは日本を強国にするための不可欠な要素だったのです。
二人の決裂と「明治六年政変」
西郷の派遣は閣議で一度は決定されましたが、大久保と岩倉具視が反対運動を展開し、天皇の裁可を覆す形で中止に追い込まれてしまいます。その結果、西郷は職を辞し、彼を支持する多くの政府首脳も辞任しました。この一連の流れが、「明治六年の政変」です。
西郷は故郷・鹿児島に下野し、政治の第一線を退きます。一方、大久保は内務省を創設し、初代内務卿として「富国強兵」や「殖産興業」の政策を推進しました。かつて同じ目標を共有していた二人は、ここで完全に別々の道を歩み始めたのです。
西郷隆盛と大久保利通の対立は、明治維新という巨大な変革期における価値観の対立を象徴していました。西郷は人間味あふれる理想主義者として平和を目指し、大久保は現実的な政策を通じて日本の近代化を進めていたのです。
国内に留まっていた立場と、広く欧米を見て周った立場。この二つの立場の違いは、ある意味必然だったとも言えます。これらの視点がなければ、明治政府の発展やその後の日本の近代化は異なる形を取ったかもしれません。
歴史を振り返ると、二人の選択はどちらも欠かせない要素だったことがわかります。西郷があれほど重視した「征韓論」はやがて、別の形で、そしてよくない方向に、実を結んでいってしまうのでした。
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