薩摩藩国父の島津久光は「芋公」?幕末四賢侯や徳川慶喜は当時なんと呼ばれていた?

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左から、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、島津久光

(町田 明広:歴史学者)

幕末四賢侯とは

 幕末期には多くの有能な大名(諸侯)が輩出されたが、その中でも、ほぼ幕末史を通じて活躍したのが四賢侯と呼ばれる面々である。具体的には、松平春嶽(1828~90、越前藩主)、山内容堂(1827~72、土佐藩主)、伊達宗城(1818~92、宇和島藩主)、島津久光(1817~87、薩摩藩国父)の4人の諸侯のことである。

 久光を除く3人は、安政5年(1858)にピークを迎えた将軍継嗣問題(13代将軍徳川家定の後継者として、一橋慶喜か紀州慶福を推す党派抗争)に敗れ、大老井伊直弼によって藩主の座を追われた。島津久光は、同時期に急逝した藩主斉彬の異母弟であり、斉彬亡き後の薩摩藩の実権を掌握して、国父と称された。

 文久3年(1863)、復権を果たしていた春嶽・容堂・宗城と久光の四賢侯は、八月十八日政変後の京都に参集し、翌元治元年(1865)1月、朝議に参画する朝政参与(いわゆる参与会議)を実現した。また、慶応3年(1867)5月にも再び京都に参集し、懸案となっていた兵庫開港問題と長州藩処分を検討した四侯会議を開催した。

 このように、幕末の中央政局において、四賢侯は大きな足跡を残しており、幕末維新史を語るには欠くことが出来ない人物群である。今回は趣向を変え、この4人がどのような「あだ名」を付けられていたのか、その由来とともに紐解いてみたい。

松平春嶽のあだ名


松平春嶽

 松平春嶽について、「鋭鼻公」(えいびこう)がある。これは、春嶽の鼻が高いことを、春嶽自身が自虐的に用いたものであり、自分の顔の一部を揶揄したものである。

 もう一つ、春嶽には、「調笛」「長笛」「暢迪」がある。いずれも、(ちょうてき)と読むのだが、これは“朝敵”をもじったものだ。朝廷(孝明天皇)が即時攘夷を唱えることに対し、春嶽は未来攘夷を唱えていた。このことを即時攘夷派から批判されており、“朝敵”の隠語としてこれらの漢字が当てられたのだ。宗城は、春嶽宛書簡の中で、「調笛」を多用している。

伊達宗城のあだ名


伊達宗城

 伊達宗城について、「長面公」(ちょうめんこう、ながつらこう)がある。顔立ちが面長だったためであるが、これも先ほどの春嶽同様、自虐ネタである。また、宗城は大きな体格であり、そのガタイの良さから、「大漢」(おおおとこ)ともあだ名された。いずれも、身体の特徴である。

 さらに、「弄鏃」(ろうぞく)ともあだ名されている。これは“老賊”(=わるもの)をもじったものであり、宗城の政治スタンスが分かり難かったことに起因していよう。

山内容堂のあだ名


山内容堂

 山内容堂について、最初に「鯨飲」「鯨海酔公」「酔漢」「五斗先生」を紹介しよう。雅号の1つでもあるが、これらはすべて、容堂が大酒豪だったことに由来しており、容堂自身も好んで用いている。また、「九十九洋外史」(つくもなだがいし)があり、これも雅号の1つであり、容堂の領地である土佐湾の別名を意味している。

 さらに、「狼先生」があるが、これは容堂の剛腹さを表現したものである。なお、「酔狼君」(すいろうくん)は、「酔漢」と「狼」を合わせたものである。まさに、言い得て妙の容堂のあだ名である。

島津久光のあだ名

島津久光

 島津久光について、有名なものに「芋公」がある。これは、薩摩藩の特産物であるサツマイモになぞらえているが、やや田舎者といった揶揄的要素が含まれる。

 また、「大愚叟」(だいぐそう)は極めてシニカルな背景を持つ。これは、徳川慶喜から「天下の大愚物」と揶揄されたことに由来する。幕末期は、幕府VS薩摩藩、慶喜VS久光の抗争の時代であったが、そのことが色濃く反映されたあだ名であり、非常に興味深い。

徳川慶喜のあだ名


徳川慶喜

 最後に、四賢侯と時に協調し、時に対立した最大のライバルである徳川慶喜についても触れておこう。慶喜は、「天下大剛情」「剛情生」「剛」とあだ名されている。これは、慶喜の性格から来るものであり、一度決めたら梃子でも動かない慶喜を“剛”で表現しており、絶妙の言い回しである。

 こうしたあだ名は、付けられた側から、必ずしも拒否されたわけではなく、書簡の交換の中では、普通に双方で使用されている。これは、お互いがお互いを心から認め合う、真の信頼関係があってのことであろう。

 固い絆で結ばれた四賢侯であったが、幕末の最終段階では、親幕府的な山内容堂と反幕府的な島津久光・伊達宗城が対立し、松平春嶽が両者を調停する関係となり、明治維新を迎えることになる。

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