うなぎの歴史は波乱万丈だった。古代から食されてきたにも関わらず、いまだ謎の多いうなぎ。2005年には、研究者が長年追っていたニホンウナギの産卵地点をついに発見した。一方で、2013年には環境省がニホンウナギを、野生での絶滅の危険性が高い絶滅危惧IB類に認定。真剣にうなぎの資源保護に取り組む現況が続いている。本稿は、高城 久『読めばもっとおいしくなる うなぎ大全』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。
夏目漱石 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
文明開化を機にうなぎの本格的養殖が始まった
明治に改元されて文明開化のもと、うなぎの世界にも革命的な出来事が起きます。それは、武士の世に終止符を打ったといわれる西南戦争の2年後に始まりました。
文化・天保年間(1830年ごろ)から東京深川で川魚商を営む家に産まれた服部倉次郎は、深川千田新田に養魚池を作り、うなぎの餌づけを始めます。うなぎ養殖事始め、1879(明治12)年のことです。さらに倉次郎は温暖な浜名湖に目をつけて、地元の有力者である中村正輔の尽力により静岡県舞阪町(現浜松市中央区)の土地を購入します。そこに約8町歩(約1万平方メートル)の養殖池を造成。スッポンとうなぎの養殖を開始しました。1900(明治33)年、これがうなぎの本格的養殖の幕開けとなりました。
肉食が奨励される世の中の風潮とは別に、うなぎには根強い愛好家がいました。特に明治の文豪にはうなぎ好きが多く、当時の作品の中に登場するうなぎを知ると、明治の世のうなぎの立ち位置が想像できます。
正岡子規 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
夏目漱石の『吾輩は猫である』には「時に伯父さんどうです。久し振りで東京の鰻でも食っちゃあ。竹葉でも奢りましょう」と竹葉亭(東京都中央区銀座)が登場。『虞美人草』では「ある人に奴鰻を奢ったら、御陰様で始めて旨い鰻を食べましたと礼をいった」と鰻やっこ(東京都台東区浅草)が出てきます。
高浜虚子は、『漱石氏と私』の中で、うなぎ好きで有名な正岡子規について「子規という奴は乱暴な奴だ。僕のところに居る間毎日何を食うかというと鰻を食おうという。それで殆んど毎日のように鰻を食ったのであるが、帰る時になって、万事頼むよ、とか何とか言った切りで発ってしまった。その鰻代も僕に払わせて知らん顔をしていた」と、一体いくら払わされたのか、愚痴ともとれるエピソードを語っています。
池にある伊豆榮へも鰻を食べに連れて行ってもらった」と、現在も池之端にある鰻割烹 伊豆榮(東京都台東区上野)に行った思い出が綴られています。
歌人で精神科医の斎藤茂吉も無類のうなぎ好き。花菱(東京都渋谷区道玄坂)を贔屓にし、うなぎの句を多く残していますが、「これまでに吾に食はれし鰻らは仏となりてかがよふらむか」と、食べたうなぎの命に思いを寄せており、私など共感できる一句です。
ハイカラな西洋文明の流入にも負けず、江戸前うなぎの変わらぬ人気が窺えます。
うなぎの歴史は波乱万丈 ニホンウナギが絶滅危惧種に
明治以降、現在に至るまでのうなぎの歴史は波乱万丈です。1900年に浜名湖で始まったうなぎの養殖は、1940年頃には出荷量1万トンほどになりますが、太平洋戦争の勃発により急速に衰退してしまいます。戦後の1947(昭和22)年、現在の日本養鰻漁業協同組合連合会の母体となる東海三県養鰻組合連合会が結成され、徐々に復興し始めます。
高度成長期になると各地で治水事業のためにダムや堰などの人口構造物の建設が進み、河川へうなぎが遡上しにくくなり、天然うなぎの漁獲量が激減し始めます。ちょうどその頃、伊勢湾台風の影響をうけた愛知県一色町(現在の西尾市)では、農地が養殖池に転用され、うなぎ養殖の先進地域として養鰻業をリードし始めます。
このころまでは、クロコウナギといわれる15cmほどに成長した子どもうなぎを捕って、露地池で育てる養殖方法でした。ところが、1971(昭和46)年、うなぎ養殖に革命的な出来事が起きます。現在の浜松市に生まれたうなぎ養殖研究者の村松啓次郎は、クロコウナギに成長する前段階のシラスウナギからの養殖に成功したのです。
シラスウナギ Photo:PIXTA
しかも池そのものを温室にするハウス式温水養殖法を考案。それまで1年半から3年かかった養殖期間が、半年から1年半と短縮され、生産量を大幅に増やすことが可能になりました。
1980年代になると台湾や中国からのうなぎの輸入が増えてきます。さらに1990年代に入ると、中国でヨーロッパウナギを養殖して日本へ輸出するようになりました。安価な養殖うなぎが大量に輸入されたことで、それまで高級品だったうなぎが、ふだん気軽に食べられるようになりました。
一方で、大きな問題も起こります。理由は不明ながら、ヨーロッパウナギが急激に減ってしまったことで、絶滅の恐れのある野生動植物を守るためのワシントン条約の附属書に掲載され、2013年から貿易取引が制限されてしまったのです。
また日本国内では、1960年代半ばまで100トン以上捕れていたシラスウナギが1971年以降は100トンまで減り、1990年には20トンを割り込みます。2013年、環境省はニホンウナギを、近い将来野生での絶滅の危険性が高い絶滅危惧IB類と認定。なんとうなぎがレッドリスト入りしてしまったのです。
1990年代は、リーズナブルにうなぎが食べられるうなぎバブル時代から、真剣にうなぎの資源保護に取り組む時代へと、変化を遂げた転換期となりました。
長年の謎だったニホンウナギの産卵地点を東大チームがついに発見
うなぎは、古代から食されてきたにも関わらずいまだに謎の多い生物です。うなぎはどこで産卵するのか?この疑問に多くの生物学者が挑んできました。1922年、大西洋ウナギ(アメリカウナギとヨーロッパウナギの総称)は北大西洋のサルガッソー海が産卵場所とデンマークの海洋学者ヨハネス・シュミット博士がつきとめました。
一方で、日本における本格的なうなぎ生態研究は、1973年に東京大学海洋研究所(現大気海洋研究所)が行ったニホンウナギの大規模な産卵場調査航海が始まりです。世界のうなぎ研究をリードするうなぎ博士・塚本勝巳東大名誉教授が大学院生としてうなぎ研究に参加したのもこの航海でした。
マリアナ諸島は、ミクロネシア北西部の列島 Photo:PIXTA
それから18年後の1991年に東京大学海洋研究所はマリアナ西方海域でレプトセファルス(生まれたての赤ちゃんうなぎ)約1000尾を採取し、おおよその産卵場所をつきとめました。塚本教授らの研究グループは、さらに探求を続けます。
ついに2005年、マリアナ諸島西方海域でふ化したばかりのプレレプトセファルスを大量に採取することに成功し、ニホンウナギの産卵地点を発見したのです。さらに2009年には西マリアナ海嶺の南端で待望のうなぎの卵31個の採取にも成功しました。
大西洋ウナギの産卵場の新説を2020年に発表
この時点で天然うなぎは何を食べているのかさえわかっていませんでした。塚本教授は、他の研究者と共同で、長年の謎だったレプトセファルスが何を食べて大きくなるのかを研究します。結果、海洋表層の植物プランクトンや動物プランクトンの死骸が分解されてできる、マリンスノーを食べて育っていることがわかったのです。
『読めばもっとおいしくなる うなぎ大全』(講談社)
高城 久 著
塚本教授とは「東アジア鰻学会」の懇親会でお話させていただいたことがあります。2016年のことです。「うなぎ大好きドットコムといううなぎ屋さん応援サイトを運営している高城と申します」と、私が自己紹介すると、教授は「私もうなぎ大好きですよ」と答えてくださり、「うなぎは日本の大切な食文化ですからね。がんばってください」と励ましのお言葉をいただきました。「うなぎがいなくなれば、その食文化が消えてしまいます。うなぎの生態をさらに解明して完全養殖につなげていきたい」と熱く語っていらしたのが印象に残っています。このころはうなぎの完全養殖が緒に就いたばかりでした。
この後、塚本教授は物理学者も加わった日仏の研究チームによって、大西洋ウナギの産卵場が、長年定説とされてきた海域より東の、大西洋中央海嶺付近にある可能性が高いとする新説を2020年に発表しました。今後の研究成果にも世界が注目しています。
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