戦国武将のルーツを辿る【第1回】
日本での「武士の起こり」は、遠く平安時代の「源氏」と「平家」に始まるという。「源平」がこれに当たるが、戦国時代の武将たちもこぞって自らの出自を「源平」に求めた形跡はある。だが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国時代に覇権を握った武将たちは、そのほとんどが明確なルーツはないままに「源平」を名乗ろうとした。由緒のあるか確たる氏素性を持った戦国大名は、甲斐・武田氏や出羽(秋田)・佐竹氏など数えるほどしかいない。つまり、戦国時代には槍一筋で成り上がった武将・大名がほとんどであったことになる。そうした戦国武将・大名家も、自分の家のルーツを主張した。絵空事も多いが、そうした主張に耳を貸してみたい。今回は戦国時代の九州を席巻した「島津家」の起源と歴史をたどる。
戦国時代の島津家を代表する猛将・島津義弘の像
鎌倉幕府を開いた源頼朝には4男2女があった。頼朝は、覇権を競った木曽義仲の嫡男と婚約しながら引き裂かれた長女・大姫の悲哀をはじめ、頼朝死後に起きた長男・源頼家の幽閉と暗殺、さらに2男・実朝の暗殺など、頼朝の覇業の陰で子どもたちの悲劇は発生し、こうした事件の連続によって、清和源氏の正統・頼朝の血脈は絶えてしまった。
だが源頼朝には、実は7番目の子どもがいたという。密かに男児が生まれ、その男児の家がそのまま鎌倉・室町・戦国を生き延び、江戸時代・明治維新を生き残って、現在に至っている。それが戦国時代の雄とされた薩摩・島津家である。
頼朝の近臣・比企能員(ひきよしかず)の妹・丹後局が、頼朝の子を懐妊した。だが、頼朝の正妻・北条政子の嫉妬を怖れて家臣団が計って西国・摂津(大阪府摂津市)に逃がした。局が摂津住吉に至った時、雨が降り出し、明神社で雨宿りをするうちに産気付き男児を出産した。だが、生まれたばかりの赤子も世話ができる者がいない。困惑する従者たち。すると雨の中で狐火が燃えて、どこからともなく数匹の白狐が現れて人間の女性に姿を変え、赤子に乳を飲ませ、母子ともに救助した。
生まれた男児は後に頼朝の武将・畠山重忠が烏帽子親となり元服し「忠久」を名乗る。忠久は、後に薩摩守護職に任じられる。以来、島津家は稲荷明神を信仰し、雨の降るのを「島津雨」と呼んで、吉祥(縁起がいいこと)とした。そして忠久は「島津家の守護霊は狐である。決して狐を殺すことのないように」と家中に告げ、それが島津家をして「霊孤(れいこ)の家」となったのである。
島津家にとって、狐の霊力は数度に渡って顕れる。その1つが、大永7年(1527)、後に15代藩主になる貴久(義久・義弘の父)が14歳の時、鹿児島市水城に籠もっていたが戦いに利非ず、父・忠良(日新斎)のいる田布施城を目指して落ち延びようとした。その時に、追って来た敵兵に囲まれ、古い祠に隠れた。敵兵が近づく。すると祠から2匹の狐が飛び出して、敵兵を惑わした。こうして貴久は九死に一生を得たのだった。
島津家は、鎌倉・室町という時代を経て分流が増加し、宗家と分家による内訌も多くあった。そうした中で、戦国大名としての島津家を見た場合、初代・忠良、2代・貴久とする数え方もある。「薩摩に馬鹿殿なし」といわれるのは、歴代の薩摩藩主が名君であったことを示している。その水脈は、日新斎・忠良から始まる。
戦国期、貴久の男児4兄弟(義久・義弘・歳久・家久)は誰も優秀な人物に育った。そして、島津の将兵が闇の中の合戦でも迷わなかったのは、狐火が必ず現れて敵の陣営に誘導してくれたという。
以後、九州版「桶狭間」といわれた日向(宮崎県)・伊東義祐との「木崎原合戦」、豊後(大分県)・大友宗麟との「耳川合戦」、肥前(佐賀県・長崎県の一部)・龍造寺隆信との「沖田畷合戦」を勝ち抜いた島津勢は、最期には豊臣秀吉の「九州征伐」に屈する。が、薩摩・大隅・日向の一部が安堵された。
そして慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦である。西軍の陣営にいた66歳の義弘とその手勢1300がわずか80人に減るという敵中突破を敢行した。「関ヶ原の退き口」である。これも「霊孤の家」ならではの蛮行であったかも知れない。そして、島津家は江戸時代を経て明治維新までを生き残る。
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