子供に正確な読み方を、と言われて詰まる広報部員
講談社資料センターには、さまざまな部署から相談が寄せられます。ある日、広報室からこんな相談が舞い込みました。
〈地方紙の記者の方から、御社の旧名=大日本雄辯会講談社の読み方は、ダイ「ニホン」ユウベンカイコウダンシャですか? それともダイ「ニッポン」ユウベンカイコウダンシャでしょうか? というご質問がありました。
創業から大正時代頃の団子坂旧社屋に掲げられていた社名看板 Photo/ 講談社写真資料部
どちらでも大丈夫では、と答えようと思ったのですが、記者の方いわく、同紙で発行している子供向けの新聞で戦前の講談社のことを取り上げるので、ルビをふらなければならない。子供たちに正確に伝えてあげなければと思い、ご連絡しました、と。そう言われてしまうと、こちらも無責任に答えられません〉
質問を受けた広報部員は一生懸命、社史をめくってみたそうです。が、そのことに言及はなく、しばし時間をください、とお返事をして社長室に質問。ですが、社長室でも誰もわからず、資料センターならば何らかの資料があるのでは? とお鉢が回ってきたのです。
んんんん?? たしかに、日々、深い疑問も持たずに「大日本雄辯会講談社」の字面を眺めていただけでしたので、思わず答えに窮しました。旧名から現在の「講談社」に社名変更となったのは1958(昭和33)年。今から67年前ですから、当時を知る社員もおりません。はたして我が社の旧名は「ニホン」だったのか「ニッポン」なのかーー。
言語学ではメジャーな「ニホンとニッポン」問題
質問の顛末をお答えする前に、そもそもの疑問から。
日本の国名は、ニホンなのかニッポンなのか。この話題は、言語学ではメジャーなトピックスとして扱われてきました。
世界では、国民が呼んでいる自国名と国際的な通称が全然違うのは珍しいことではありません。たとえば「Deutschland(ドイチュラント)」と「Germany」、「Suomi(スオミ)」と「Finland」、「Misr(ミスル。sの下に半円)」と「Egypt」、「韓国(ハングク)」と「Korea」といった具合。自国語音と英語音が似ていなければ当然そうなります。とはいえ、国号名称が自国内でも決まっていない、というケースはさすがに珍しいのではないでしょうか?
古くからの「日本」の呼び名についての論説は、古くは南北朝時代の武将・北畠親房による『神皇正統記』にその記述が見え、江戸時代では国学者・本居宣長、『解体新書』で有名な蘭学者・前野良沢などが自説を披露しています。現在でも論争が繰り広げられていますので、いくつかご紹介していきましょう。
まず、「日本」という漢字表記について。国内の公式文書で最初に確認できるのは、教科書でおなじみの、720(養老4)年成立、国史第一号の『日本書紀』です。
同書の文中では、これまで中国から呼ばれていた「倭(わ)」という国名をすべて「日本」と書き直し、かつ、これを「やまと(耶麻騰)」と呼ぶ、と注意書きがなされています。日本と書いて「やまと」と読むんですね。「日本」を「ニホン」と読むのは、漢字の中国語発音にそった読み方で、いわば外来語のようなものなんです。
「ニホン」という音は、『日本書紀』の時代の中国=唐の公用語(中古代中国語「漢音」)よりも古い、「呉音」由来とされています。『三国志』でおなじみの「呉」が存在したのは西暦250年前後。日本列島に邪馬台国の卑弥呼がいた時代で、中国南方系の言葉です。呉音では「日」という字を「ニチ」と読み、「ニチホン」→「ニホン」となったのではという説です。
また、近年の音韻学・言語学の研究では、奈良以前の日本人は「h」音を「p」音で発声していた、というのが定説です。つまり私たちが今、話している「は、ひ、ふ、へ、ほ」を、卑弥呼や聖徳太子、あるいは時代が降って天智天皇の頃までは「パ、ピ、プ、ペ、ポ」と発音した。とすると成立時には『日本書紀』の音読みも「ニホンショキ」でなくて、「ニポン(一説ではニエットプァン)ショキ」だったのではないかとされています。
奈良時代の都だった平城京跡 Photo by Gettyimages
しかし平安時代になると、「ハ」行の発音は、p音からh音へと変化し、「ニホン」という読みが優勢になり、この頃には「ニホンショキ」と呼んだことが仮名文字から確認できています。たしかに紫式部や清少納言の王朝文学や平安貴族たちの詠む和歌に「パピプペポ」の撥音はちょっと似合わない感じがします。
国名として「ニッポン」という言い方が広まったのは、もっと後代、関東武士たちの勃興と都への進出によって室町頃に“関東なまり”が都に流れ込み、「日本=ニッポン」となったのだという説を唱える研究者もいます。
「ジャパン」はどこから来たのか?
「日本」をなんと言ったのか。さらに有力な表音文字の手がかりがあります。それは16世紀、戦国時代の南蛮人宣教師たちによるポルトガル語表記です。現在に伝わっている『日葡辞書』によれば、「日本」を表すアルファベットとしては「Nippon」が一番多いものの、「Niffon」「Nifon」さらには「Jippon」という表記もあり、この頃、各地で「日本」の発音は入り乱れていたようなのです。
え、「ジッポン」? でも「日本」という漢字を逆さにしたらどうでしょう。「本日」=「ほんじつ」ですね。「日」を「ジツ」と読むのは、唐以降に中国で定着する北方系の「漢音」由来です。
中国へと旅したマルコポーロ Photo by Gettyimages
『東方見聞録』中の日本表記「ジパング」は、現在の世界における通称「ジャパン」の原型ですが、この読み方はマルコポーロが中国(当時の王朝は元)に到着した頃、中国人が「日本(国)」を「ジッペン(グオ)」と呼んでいたのを耳にしたのだとされています。ですが、その後、鎖国された江戸時代の日本国内では「ジッポン」という言葉は衰退していき、次第に平板化した「ニホン」読みがまた優勢になっていきました。
「大日本帝国」で復権した「ニッポン」
徳川幕府が倒れ、明治維新が起こるとともに新政府は国際政治の荒波でもみくちゃにされます。時代は帝国主義のまっただ中、日本も「大日本帝国」と名乗り、世界列強との植民地の取り合いに参戦していきます。そんな政府のふるまいが、「ニホン」と「ニッポン」の読み方に思わぬ余波を与えました。
大日本帝国政府は、大東亜共栄圏下に入った朝鮮半島、台湾、満州、南方などに暮らす人々を統治するにあたって、欧米列強の植民地での言語教育を参考にして日本語教育の指針を作ります。そのとき、文体は口語体にすること、文字表記はカタカナとすること、仮名遣いは発音式にすること、とあわせて「発音を統一すること」という項目が入ったのです。
1935年の満州国 Photo by Gettyimages
こうして1920年代(大正後期から昭和初期)に国号統一の気運が高まり、1934(昭和9)年3月には文部省臨時国語調査会の審議で「今後、国名はニッポンに統一する」という決議がなされ、新聞などでそのニュースが広く報じられました。
創業者・野間清治は社名をなんと呼んだ?
さて、冒頭の疑問に戻ります。講談社の旧名「大日本雄辯会講談社」はなんと読むのでしょうか?
1909(明治42)年、講談社の創業者・野間清治が自宅兼社屋に最初に掲げた看板は、「大日本雄辯会」でした。「大日本」という言葉の威勢の良さを清治は気に入っていたようです。
1934年、本社(現・本館)落成式での野間清治 Photo/ 講談社写真資料部
国語調査会の決議が発表されるほんの数日前、1934年3月19日には野間清治の英語版伝記「NOMA OF JAPAN THE AUTOBIOGRAPHY OF A JAPANESE PUBLISHER」が英国で出版されているのですが、その文中では大日本雄辯会講談社はDai Nippon Yubenkai Kodansha と表記されていました。
さらに調べていったところ、同年6月号の「社内ニュース」(社内報)で「國名、ニッポンに就いて」というトピックスが掲載されていました。
1934(昭和9)年の社内報に告知が Photo/ 講談社資料センター
〈我国名の呼称に就いては、先般国語調査会において「ニッポン」と呼ぶことに決定されましたが、本社においても同様「ニッポン」に一定することになりました。/ただし商業取引上やむを得ざる場合とか、既製のペーパー、パンフレットなどはそのまま使用して新製作の場合より改めることになりました。〉
前段の最後に出てきた国語調査会の決議を受けて、我が社でも「日本」は「ニッポン」と読むことにしたらしい。ですが、すでに刷ってあるものを回収したり直したりすることまではしない、というゆるやかな指示でした。たしかに1934(昭和9)年以降の発行物では、「日本」のルビには「ニッポン」と表記されています。
ただし、はい、問題解決! とはいきません。決議より7年前、1927(昭和2)年12月1日付けで当社が発行した宣伝用小冊子には、書店各位にあてた「ご挨拶」が掲載されており、その末尾は「大日本雄辯会講談社一同」という言葉で結ばれています。ここに「だいにほんゆうべんくわいかうだんしや」とルビが入っているのを見つけてしまったのです。
うう~ん、はたして自分たちのことを呼称するルビを間違えるものでしょうか。しかもこの後の号でも同じように「大日本雄辯会講談社一同」とある場合には、同じルビがふってあるのです。また、現在、全国の図書館などが規準としているNDLサーチ(国立国会図書館典拠データ検索)でも、大日本雄辯会講談社の読み方として「ダイニホン ユウベンカイ コウダンシャ」と明記してあります。
ここまで調べてまだ結論が出ないー。しかし講談社として、質問してきた地方紙の記者の方にどちらか決めて返答しなければなりません。
まさかの「社長案件」で、決着したものの
収集した情報を伝えて、なおも苦悩する広報部員に謝った後、社内で偶然、野間省伸社長と遭遇しました(社長はよく社員食堂でランチを食べているのです)。すかさず社食の列に並んでいる野間社長の後ろにくっついて、これまでの経緯を説明し、直談判しました。
「ダイニホンかダイニッポンか、どっちで返答しましょう?」
「海外版ではDai Nipponだったんだよね?」
「そうです」
「じゃ、ダイニッポンで!」
即決! 海外展開を主眼に置いている野間社長らしい答えでした。広報部員にさっそく社長の指示を伝え、無事にその子供新聞では「だいにっぽんゆうべんかいこうだんしゃ」とルビが入ったということです。
こうして旧社名問題は落着したのですが…この原稿を書くに当たって、ちょっとだけ気になる記述を見つけてしまいました。
1934年の国語調査会の決議後、『タイムズ(英)』兼『ニューヨーク・タイムズ』の東京特派員だったヒュー・バイアス氏が、東京日日新聞(現・毎日新聞)に「ニッポンよりはジャパンがよい」という論説を載せています(現代かなづかいに変えて紹介)。
1964(昭和39)年、東京五輪では日本選手の胸に「NIPPON」の文字が Photo/ 講談社写真資料部
日本は欧米に広く知られている「ジャパン」という名を変えるべきであろうか。/お歴々のそろった文部省の国語調査会のいう所の理由は「ニッポン」という音声こそ「日本」の日本音に最も近いものであるに対して「ジャパン」の音は、これとはまったく異なったものであるというのである。/しかしながら私はここにいともいんぎんに、この昔から言い習わしている名を変えることは誤りであることをいいたいのである。
「ニッポン」の音が英語においてもつ所の連想はすべてケチなものであり大したものではない。動詞として「ニップ(nip)」というのは「つねる」ことである。名詞としてはそれは小さな盃一杯で、ロンドンのスラングでは、ニッパー(nipper)というのはガキのことである。
もし「ジャパン」を「ニッポン」と改めるならば、欧米人にはただチビという連想を起こさしめるのみである。世界の漫画家どもはもちろんこの改名を喜ぶに違いない。/ジャップを以て日本人を呼ぶことは言葉が野卑だというだけであるけれども、ニップときては疑いもなくそれ以上ケチなおかしい奴だということを的確に言い表すことになる。
ヒュー・バイアス氏はスコットランド出身。1914(大正3)年に来日して『ジャパン・アドバタイザー』編集長もつとめた大物ジャーナリストでした。いかにも英国風の皮肉の効いた言説ですが、影響力の大きい人物だったといわれるバイアス氏のこのコラムは、もしかしたら政府の“お歴々”を本当に動かしたかもしれません。1934年の国語調査会の決議は当時広く報じられはしたものの、結局、政府はこの決議を採択しなかったからです。
はてさて、野間社長にバイアス氏の論説を見せたほうがよいものか。いちサラリーマンとして、悩みがひとつ増えてしまいました。
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