敗北後の優遇
バルチック艦隊を撃破して、世界の英雄となった東郷平八郎。
対して、敗れたバルチック艦隊の司令長官ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督は、哀れな最期を迎えることになりました。
といっても、日本海での海戦に敗れたためではなく、自身の人格のせいで不遇な晩年を過すことになってしまったのです。
日本海海戦では、彼は旗艦「スワーロフ」に乗り込み艦隊の先頭に立っていましたが、東郷率いる日本艦隊の集中砲火を浴び、艦船は大損傷を受け、ロジェストヴェンスキー自身も被弾します。
一命は取りとめたものの、右足踵部の動脈を切断するなど意識不明の重傷を負いました。
その後、炎に包まれた旗艦から駆逐艦に運び込まれて逃亡する途中、日本の艦隊に捕まって捕虜となり、長崎県佐世保の海軍病院へ収容されています。
病院では手厚く看護され、海戦から1週間後の1905年(明治38)6月3日には東郷平八郎の見舞いも受けました。
9月になって傷の癒えたロジェストヴェンスキーは、京都の知恩院で静養することを許されたのですが、これは捕虜としては破格の待遇でした。
ジノヴィー・ロジェストヴェンスキーの運命
そして、9月5日に講和条約が調印されると、自費出国を願い出て12月初めにペテルブルグに帰国します。
ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー(Wikipediaより)
帰国した翌年、ロジェストヴェンスキーはロシアの海軍省で開かれた軍事法廷にかけられます。
ロジェストヴェンスキー本人は「自分にも責任がある」と主張しましたが、意識不明の重傷を負っていたとして責任は問われませんでした。
最終的に、彼の負傷後に全軍の指揮を継承したネポガトフ提督とコロン参謀長が死刑宣告を受けることになります。
実際には2人に死刑が執行されることはなく投獄されただけだったようですが、しかし、ここからロジェストヴェンスキーの運命は一変していくのです。
この軍事法廷での判決は、かねてから彼の態度に不満を持っていた者たちの感情に拍車をかけました。
ロジェストヴェンスキーは、バルチック艦隊がヨーロッパから喜望峰回りでアジアへ向かう途中で部下に対して冷たくあたったり、水兵を罵倒し暴力を振るうなどの問題行動を数多く起こしていたのです。パワハラですね。
そうした傲慢な態度への不満がくすぶっていた中での法廷での判決に、かつての部下たちの不満は歯止めが効かなくなっていきます。
環境要因も
この様な事態に海軍省も無視できなくなり、ロジェストヴェンスキーの官位はついに剥奪され、軍籍からも追放されてしまうのです。
日露戦争及び日本海海戦における日本勝利の大きな要因として、英国による日本への徹底した支援がありましたが、それはバルチック艦隊にとってはかなりの痛手で、兵士たちの士気は著しく低下しました。
また、英国がバルチック艦隊に対し行ったスエズ運河の使用不許可や、英国植民地での石炭補給の禁止などの措置はロジェストヴェンスキーにとって苦々しいものだったことでしょう。
何しろ、これらによってバルチック艦隊は効果的な補給や整備が叶わないまま地球半周の大航海をする羽目になってしまったのですから。
ロジェストヴェンスキーのパワハラを擁護することはできないものの、彼の問題行動の裏にはもしかしたらこのような事態に対するストレスも関わっていたのかもしれません。
軍事法廷では罪を免れることができたロジェストヴェンスキー提督。しかし、それからたった4年後の1909年(明治42)には、失意のうちに61歳でこの世を去りました。
画像:photoAC,Wikipedia
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