池畑慎之介さんが語る“昭和と鹿児島”「桜島・錦江湾は原風景」「昭和は素晴らしい時代」【昭和からのメッセージ】

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ことしは昭和元年から、そのまま昭和が続いていたとすると昭和100年にあたる節目の年です。MBCニューズナウではことし100歳となった昭和を、これまでMBCが撮影してきた映像と共に1年にわたって毎週特集でお伝えします。

今回はその初回、鹿児島ともゆかりがある俳優で歌手のピーターこと池畑慎之介さんが思い出の昭和の時代を振り返ります。

(池畑慎之介さん)「昭和というのはすごく激動(の時代)で、戦後からの日本が大きくなるときにちょうど仕事をさせていただいて、テレビ界・芸能界が面白くなっていって自分がその世界に入れて、昭和に生まれて良かったとすごく思う」

新たな再開発で変わりつつある東京・赤坂。池畑慎之介さんにとっても最初の事務所があった場所でした・・・

「56年前だからだいぶどころではない。最初に入ったプロダクションが(赤坂)一ツ木通りにあった。いまはTBSも全然昔の面影ない」

俳優・歌手 池畑慎之介さん、昭和27年1952年生まれ72歳。生まれは大阪市ですが、母の実家・鹿児島市清水町で小学校低学年から中学時代を過ごしました。いまでも原風景は桜島と語ります。

「なぜピーターになってからも海のそばに住み続けているかというと、鹿児島の錦江湾の思い出。錦江湾と桜島。空気・におい・音・波・風、ぜんぶ鹿児島の原風景があるから都心に住まないで、海のそばに住んでいる。それは子どものころの原風景。それがいい思い出」

池畑さんが東京で芸能人となるきっかけは10代半ば、ラサール中学校そして日本舞踊家元で人間国宝にもなった父親への反発でした。家出して最終的には六本木のクラブで働き始め、その後スカウトされました。

「いやだったから私は家出した。父親からの呪縛とかラサールの呪縛とか、東大のコースとか父親の家元を継がなければいけないコースとか、さあお乗りなさいといわれると自分の人生ではなくなる。人から敷かれた人生。反発して逃げていった」

ときあたかも高度成長期。戦争による焼け跡から奇跡の復興を遂げた日本は昭和40年代にはいざなぎ景気が続き、人口が1億人突破。西ドイツを抜き世界2位の経済大国になりました。

豊かさを実感する反面、社会問題も激化、学生運動が頻発しました。一方鹿児島では「金の卵」といわれた集団就職が拡大・鹿児島市の鴨池空港から、霧島への空港移転も焦点となっていました。

そんな中、出されたのが・・・

「夜と朝のあいだに」アポロ11号が月にいった昭和44年に発売された当時17歳のピーター・池畑慎之介さんのデビュー曲です。その年の日本レコード大賞・最優秀新人賞を獲得しました。

「レコード発売と同時に翌週にベストテンに入っちゃった。こういうイメージの人が歌謡曲を歌ってお茶の間に入ってきた。それがさっと受け入れられてヒットした理由だったと思う。だからやはりテレビの威力はすごい。大人のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちが、かわいい坊やをかわいがるみたいに大人のアイドルにしたかった。ふたを開けると小学生からのファンだった。とにかくアイドルになってしまった。プロダクションは大人の仕事だと思って、夜のキャバレーの仕事を取った。あわてて市民会館もピーターショーを取り始めて。あの時代は昼間ショーやって夜キャバレー飛び込んで歌わされたりしてすごく忙しかった。どこで何しているのか記憶がないぐらい。

17歳にしてスターダムにのし上がった池畑さん。20代から30代にかけ徐々に役者をやりたいとの思いが強まり、舞台や映画に軸を移したとき、大きな出会いがありました。日本を代表する映画監督・黒澤明監督の映画「乱」への出演でした。

「君がピーターっていうの、まあ座ってください。サングラスを取ってくださった。怖い方だと思ったらすごくやさしいおじいちゃん。今回、僕は絵コンテに君の顔を書いているんだよと言って。狂阿弥の顔がある。狂阿弥はピーターのメイクはいらないね。って素顔にしてくれた。この役だからメイクを取って出ているのだなとすごくありがたかった。狂阿弥は狂言師なので、いろんなことを唯一殿に対してずけずけと本音を言える。面白い役だった。すごく私にとっては一皮も二皮もむけたし、ピーターはメイクを取ってでも役者としてやりたいんだなと歌手以外の仕事を、役者として認めてくれた作品だった。もう少し若い時に出会いたかった。もっとしごかれたかった」

池畑さんにとって昭和とは・・・

「母が大正14年だからちょうど100歳になる。生きていれば。昭和に生まれて良かったといますごく思う。いまの平成の子たちよりも昭和の大変な時代を分かっているからこそいま幸せだなと思えるけれど、いまなんでも与えられてなんでも機械がやってくれて本人はどこへ行っちゃうんだろうというところもある。

 あの時代の歌謡曲はぜんぶ言葉がちゃんとドラマになっている。それをつなげていったらひとつの物語になれるように。いまは楽器の一部のような歌詞とかメロディになっているから、ちょっとさびしい気がする。生バンドで歌いたいし、昔の方がいいに決まっている。デジタルじゃないほうがいいに決まっている。人間が弾いて、人間が歌って。
 デジタルでレコーディングして音がおかしくても元へ戻せるような時代よりも、ふらっとしていてもその人の声の方がいい。そう思って生きてきている。素晴らしい時代だった」

最後に昭和そして鹿児島へのメッセージを・・・

「飛翔。鹿児島に飛んでいきたいという気持ちもあれば、鹿児島から飛び出して世界に羽ばたく人になってくださいという意味も込めて飛ぶ。第二の故郷である鹿児島、ノスタルジックな気持ちがありながら、なかなか伺うことができない」

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