「硝子のジョニー」アイ・ジョージさん逝去 “借金3億円”で表舞台から去ったスターの晩年とは 「中野のスナックに現れて…」【追悼】

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「生意気なほどに自信があった」

 歌手のアイ・ジョージさん(本名・石松譲治)は、NHK紅白歌合戦に1960年から12回連続で出場。一世を風靡した実力派だ。59年にメキシコから来日したトリオ・ロス・パンチョスの公演で彼は前座を務め、「ラ・マラゲーニャ」を歌い、一躍スターになった。

 当時の活躍を知る音楽評論家の安倍寧さんは言う。

「自分の歌声は本物だと生意気なほど自信があった。聴衆の気持ちをとろけさせた甘美な声はナイトクラブで鍛えたたまもの。成功の陰には大阪で歌う彼に注目した古川益雄さんがいます。古川さんは作家の五味康祐さんや永六輔さんと親しいプロデュースの天才で、波瀾(はらん)万丈な生い立ちも宣伝に使った。ジョージさんにもしたたかな面がありました」

原点は“流し”

アイ・ジョージ

キネマ旬報社「キネマ旬報」1962年1月上旬号より(他の写真を見る)

 33年、英国統治下の香港生まれ。父親は石油会社に勤める日本人で、母親はスペイン系フィリピン人。

 幼い頃に母親は他界、父親も病死し、孤児同然の境遇に。長野の果樹園、上京してパン屋や洋菓子店、港湾労働など職を転々とする。53年、テイチクのオーディションに合格し、黒田春雄の芸名を得るが歌謡曲が性に合わず、流しの歌手として全国を放浪。約5年を経て大阪で見いだされた。

 音楽評論家の増渕英紀さんは思い返す。

「原点は流しです。ざわついている店で打ち消されずに声を届かせ、そのうえ印象付けなければなりません。口を大きく開けずに口の中で反響させる独特の歌唱で、豊かな声量と深みがありました。ラテン歌手の先駆者になりましたが、日本的情緒の表現も得意でした」

皇太子ご夫妻に歌を披露

 時の人となり、60年には御成婚から間もない当時の皇太子ご夫妻にメキシコ風の衣装で歌を披露。予定を変えて舞台から下り、目前で歌ったとは大胆だ。

 61年、自ら作曲した「硝子のジョニー」が大ヒットし、日本レコード大賞歌唱賞を受賞。63年にはニューヨークのカーネギーホールでの公演を実現させ、65年には「赤いグラス」も人気に。美空ひばりら歌手仲間からも歌声が好まれた。

「ジョージさんはサービス精神が旺盛。わざと波風を立てて場を面白くすることもある。悪気はなく人の反応をうかがうようにつかんでいた。人生を楽しみたいとよく語っていた」(安倍さん)

3億円の借金

 67年、不動産業などを営む実業家の娘と結婚。1女を授かるが76年に離婚する。小笠原に開いた釣りの店、六本木のメキシコレストランなどの経営が頓挫、少なくとも3億円の借金を負う。

 芸能レポーターの石川敏男さんは振り返る。

「暗転です。80年代、ジョージさんから取材の誘いが来ても、記事が宣伝に使われかねないと警戒したほど」

 60年代の名曲は残ったが、表舞台から姿は消えた。95年には本誌(「週刊新潮」)の取材に応じ、6年半、世界42カ国をギター片手に旅をしながら曲を作っていたなどと語った。一方、2000年代に入るとスティービー・ワンダーら大物歌手が音楽で世界平和を訴えるプロジェクトへの投資呼びかけ人に、ジョージさんの名が現れる。出資者の疑念に自ら潔白を主張するが、07年の本誌の取材に回答はなかった。

「中野のスナックに現れて…」

 活動は続けていた。音楽評論家で尚美学園大学名誉教授の富澤一誠さんは語る。

「22年の秋、ジョージさんが来ると友人に誘われ、(東京)中野のスナックに行きました。ジャケット姿でピシッと現れ、80歳代後半に見えない。愛想を振りまかず雑談には応じる。カーネギーホール公演の様子を言葉少なに語り、今も大切にしているんだな、と感じました。ずいぶんたってからカラオケで『硝子のジョニー』を力を抜くことなく堂々と歌いました。プライドが伝わってきました」

 それは、流しの頃に戻った感覚だったか。1月18日、心筋梗塞のため91歳で逝去。

 結局は自分しか頼りにならない、と全盛期から口癖のように語っていた。

週刊新潮 2025年3月6日号掲載

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