太平洋戦争が終わって80年となる2025年、鹿児島テレビでは様々な切り口で鹿児島の「戦後80年」に迫り、戦争と平和について考える。今回は1945年、4月1日に鹿児島から初めて出撃した「特攻」について取り上げる。
1945年4月1日 知覧から特攻機出撃
現在の鹿児島県南九州市知覧町にあった旧陸軍・知覧基地。ここから特攻機が出撃したのが1945年4月1日。陸海軍合わせて3963人の命が散った「特攻」。その実態を伝える知覧特攻平和会館を訪ねた。
館内には太平洋戦争が終わる1カ月前の1945年7月にアメリカ軍が撮影した知覧基地の航空写真がある。知覧特攻平和会館の八巻聡学芸員によると、当時飛行場だった場所は現在、東側の全体の3分の1くらいが住宅地や公共施設となり、西側の残り3分の2ほどがお茶畑や耕作地になっているという。
知覧基地は元々、若手パイロットの養成施設だった。しかし1945年3月、アメリカ軍の沖縄侵攻が始まると、陸軍の特攻作戦の拠点となった。
その最初の出撃となったのが1945年4月1日。爆弾を抱いた戦闘機「隼」の4機編隊が沖縄に向けて飛び立った。
屋外には戦闘機『隼』の実物大レプリカが展示されている。主翼の下を見ると、左側には飛行距離を延ばすための補助タンクが、右側には250キロ爆弾が装備されている。
4月1日から6月11日までの72日間、知覧から連日のように、特攻機が出撃していった。
知覧から特攻出撃して戦死した若者は、439人。陸軍の沖縄戦における特攻戦死者の実に42.3%にものぼる。
特攻隊員の心の叫びがにじむ 遺書
知覧特攻平和会館には、特攻で戦死した若者たちの遺書や遺品が数多く展示されている。
家族に心配をかけまいとする精いっぱいの心遣いが文字として並ぶ、遺書。しかし、その行間からは、早すぎる人生の終わりを控えた特攻隊員たちの「生きたい!」という心の叫びがにじんでいる。
「ただ涙が出る。立派な字を書いている」「ああいうことがあって今の平和があると感じる。何度来ても涙が出る」と話す年輩の来館者。特攻兵と同年代の来館者も「同じ世代の人がこうやって亡くなっているのはすごく悲しいことだと感じた」と語った。
学芸員「特攻隊員のメッセージを読み取ってほしい」
八巻学芸員は「実際に特攻隊員が出て行った時期、出て行った場所はここ(知覧)なので、特攻隊員の最後の家族、知り合いに残したメッセージが込められている。それを多くの来館者に読み取ってほしい」と語った。
知覧基地から最初の特攻隊が出撃して、2025年4月1日で80年。あの日、特攻隊員たちが見たかもしれない桜は80年後、また満開の季節となっていた。
特攻隊員の命が散り、その隊員たちには家族がいて大切な人たちがいたということに思いを馳せたい。
(鹿児島テレビ)
コメント