特攻の母「鳥濱トメ」の生涯…戦時中に兵士を支え戦後も繋いだ深い愛情とは

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第二次世界大戦末期、10代や20代の若者たちが「特攻隊」として命を投げ出すことを強いられました。

そんな彼らを母のように見守り、温かいご飯と愛情で支えた女性「鳥濱トメ」さん。

彼女はなぜ「特攻の母」と呼ばれたのか?どのような人生を歩み、どんな思いを未来に残したのか?

戦争を知らない私たちこそ、彼女の物語から学ぶことがあるはずです。

富屋食堂と「母」としての始まり

鳥濱トメさんは1902年(明治35年)、川辺郡西南方村坊下浜(現在の南さつま市坊津町坊)に生まれ、結婚を機に知覧町へ移り住み、夫と共に「富屋食堂」を開業しました。

転機となったのは、1942年(昭和17年)知覧に陸軍知覧飛行場が完成したことです。

富屋食堂は陸軍指定食堂となり、若き特攻隊員たちが日常的に出入りするようになります。

トメさんは彼らを実の子のように接し、食事だけでなく、身の回りの世話や会話の相手にもなりました。

1945年(昭和20年)、特攻作戦が始まると、トメさんも知覧から出撃する特攻機の見送りを続けました。

「もうすぐ死にゆく彼らに、せめて最後に人間らしい時間を」との想いから、彼女は私財を投じて食事を作り続け、着物すら売って食材費を捻出したといいます。

営業時間が夜9時までと定められていたにもかかわらず、彼女は夜明けまで食堂を開け続けたため、憲兵に見つかり連行される事件も発生しました。

暴力を受けながらも「2、3日で命を落とす子たちのために、少しぐらい規則を破って何が悪いのか」と訴えるトメさん、これを聞いた特攻隊員たちは、「明日には命がない自分たちだから」と命がけで彼女を助け出したと伝えられています。

戦後も消えなかった「母」の使命

戦後の知覧飛行場は、アメリカ海兵隊によって跡形もなく破壊されてしまい、特攻隊員たちが飛び立った場所は荒れ果てていました。

そんな中、トメさんは独自に慰霊を続けます。

飛行場跡地に木の棒を杭のように立てて「これがあの子たちのお墓だよ。」と、毎日欠かさず手を合わせ続けたのです。

しかもその杭は、進駐軍に壊されないよう、手を合わせた後に引き抜いて林の中に隠すという行為を、実に10年間も毎日繰り返しました。

1952年(昭和27年)、基地跡を訪れる遺族のためにと、トメさんは富屋食堂に隣接する旅館を改装し、「富屋旅館」として再出発します。

これは、戦後知覧を訪れる特攻隊員の遺族たちのために心を尽くそうとする想いからでした。

そして、彼女の次なる願いは、特攻隊員を慰霊する観音堂の建立でした。

しかし当時の日本では反戦・反軍の風潮が強く、観音堂の建立は「戦争賛美」と誤解され、平和運動団体などから激しい反対を受けます。

町も財政的に余裕がなく、計画は容易には進みませんでした。

それでもトメは「戦争を賛美しているのではない。命をかけた若者たちを慰霊したいだけ」と強く訴え、何度も役場に足を運び、嘆願書を提出し続けます。

その真摯な思いに心を動かされた町は、ついに工費の一部を負担することを決定。

1955年9月28日、知覧陸軍飛行場跡地に「特攻平和観音堂」が建立され、観音像は「知覧特攻平和観音像」と命名されました。

この観音堂は、トメさんだけでなく、かつて特攻隊員の世話をしていた女学生たち、そして町民たちにとっても大きな喜びとなりました。

その後、観音堂の隣には「知覧特攻平和会館」も建設され、知覧の地は戦争と平和を考える場として広く知られるようになります。

その行動は、若き命の尊さを伝え続けるためのものであり、深い愛情と使命感に満ちたものでした。

1992年(平成4年)享年89歳でその生涯を閉じるまで、トメさんは一貫して「特攻隊員たちは決して軍神ではなく、普通の若者だった」と語り続けました。

彼女にとって彼らは、最後まで人間として扱うべき「我が子たち」だったのです。

今なお生き続ける「特攻の母」の想い

鳥濱トメの物語は、現在もさまざまな形で語り継がれています。

2025年3月には浅香唯さん主演で、舞台『Mother〜特攻の母 鳥濱トメ物語〜』が新国立劇場で上演され、大きな感動を呼びました。

また、鳥濱明久氏による著書『知覧いのちの物語』では、当時の写真や証言を通じて、彼女と特攻隊員たちの関係がリアルに描かれています。

「戦争は愚かだ」と語ることは簡単ですが、鳥濱トメはその現実の中で何が人間らしさなのかを体現した存在です。

若者たちにただ「頑張れ」と言うのではなく、彼らの心を受け止め、命の最後の瞬間まで人としての尊厳を守ろうとした姿勢は、今の時代にこそ強く響きます。

まとめ

鳥濱トメの生き様は、戦争の中における“母性”と“人間愛”を象徴するものでした。

彼女は国のために命を落とす若者たちに、最後の瞬間まで「人としての温もり」を与え続けました。

その行動は、美談でも英雄譚でもなく、「人として当たり前のことをしただけ」と語る彼女の信念がにじんでいます。

戦争を知らない世代が増える中、鳥濱トメのような存在から学ぶことは多くあります。

それは「平和とは何か」ではなく、「人を大切にするとはどういうことか」を問い直すことなのかもしれません。

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