ロシアの「核ドクトリン」
2024年9月1日付のロシアの「タス通信」は、気になる記事を配信した。その出だしを翻訳すると、つぎのようになる。
「ロシアは、特別軍事作戦(SMO)に関連して、最近の紛争と欧米の行動の分析に基づいて核ドクトリンを変更する。セルゲイ・リャブコフ外務次官がタス通信に語った」
要は、ロシア側のSMO、すなわちウクライナ戦争における最近のウクライナ軍によるロシア領への奇襲攻撃や、相次ぐ無人機攻撃などから、核兵器使用の条件を引き下げるということだ。
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核ドクトリンとは、ロシアが核兵器を使用する原則が示されたもので、現在は2020年6月2日付の大統領令によって承認された「核抑止力分野におけるロシア連邦の国家政策の基礎」にある条件が適用されている。
第19項に書かれた、その使用条件は、
(1)ロシア連邦および(または)その同盟国の領土を攻撃する弾道ミサイルの発射に関する信頼できる情報の受領、
(2)敵がロシア連邦および(または)その同盟国の領土で核兵器やその他の大量破壊兵器を使用すること、
(3)敵がロシア連邦の重要な国家施設や軍事施設に影響を及ぼし、それが機能停止することで核戦力の対応が混乱する、
(4)通常兵器の使用によるロシア連邦への侵略で、国家の存立が脅かされる場合
――という4条件だ。
実は、ウラジーミル・プーチン大統領は、今年6月20日、ベトナム訪問後の記者会見で、「ロシアは核ドクトリンの変更の可能性について考えている」と発言していた。このとき、プーチンは、「核兵器使用の閾値を下げる」ことに関連する新たな要素が出現したためだと説明した。これは、「超低出力の爆発性核兵器」の開発に関するものとされており、この小型核兵器の使用のための条件変更の必要性を示唆していた。
小型核使用までの手順
法的手続きを重んじる傾向のあるプーチンは、ウクライナ軍のような奇襲に出るのではなく、まず、核ドクトリンという核使用原則の具体的変更を発表するだろう。大統領令でそれを承認して、その運用を開始する。先のタス通信とのインタビューで、リャブコフ次官は、関連文書の最終化作業は進行中だが、具体的な完成期限を語るのは時期尚早だと説明したという。
おそらく早ければ、今秋にも、新核ドクトリンが施行され、ウクライナへの核投下が秒読み段階に入る可能性がある。おそらく、それはつぎのようなプーチンの宣言によって幕を開けるだろう。
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「72時間以内にロシア領内からウクライナ軍が完全撤退しなければ、広島・長崎規模の核兵器をウクライナ領内に投下する用意がある。」
プーチン大統領は、拙稿「越境攻撃」と称される「ウクライナ版・真珠湾攻撃」……最後はロシアの核兵器を浴びるぞ」に書いたように、8月6日からはじまったウクライナ軍によるロシア領クルスク州への奇襲に対する「復讐・報復」を固く誓っている。
すでに、ロシア軍は同月26日、30カ月つづくウクライナ戦争における「最大級の攻撃」の一つとして大規模なミサイル攻撃を行った。だが、プーチンは、「復讐はまだ足りない」と考えているはずだ。もちろん、ロシア国民もまた断固たる「復讐」や「報復」を望んでいる。それは、日本軍の真珠湾への奇襲攻撃によって大打撃を受けた当時のアメリカ国民の気持ちと似ている。
高まる復讐心
プーチンは8月7日、ウクライナ軍による奇襲を「重大な挑発」と表現した(そのときの写真が下)。ロシアの国家反テロリズム委員会は10日、ウクライナ軍(AFU)によるロシアのクルスク地方への侵攻が収まる気配がないことから、同国西部のクルスク、ベルゴロド、ブリャンスクの3地域で「対テロ作戦」を開始した。
歯がゆかったのは、ウクライナとは「特別軍事作戦」を展開していると称するプーチンにとって、「戦争開始には事前通告が必須」という国際法上の常識をもち出すことができなかったことである。ウクライナ軍による対ロ侵攻は、事前通告なしに実施されたが、すでにロシアとウクライナは2022年2月24日以降、戦争状態にあるので、日本軍が真珠湾でアメリカ軍に行った両国の開戦前の「だまし討ち」とは異なっている。
それでも、「テロ」は奇襲を前提として行われること多いから、この「対テロ作戦」には、「対奇襲作戦」という意味が込められている。
ゆえに、新核ドクトリンには、「テロによる重大な挑発」といった文言が追加され、奇襲攻撃に対する「復讐・報復」としての核使用もありうることにするだろう。この際、テロ行為者への核兵器は「超低出力の爆発性核兵器」に限定されるといった文言が入るかどうかが注目点だ。
アメリカの反応は?
プーチンがこうした発言をすれば、アメリカはどう反応するだろうか?
現在行われている米大統領選への影響が気になる。共和党のドナルド・トランプ大統領候補とJ・Dヴァンス副大統領候補はどう反応するかを想像してみよう。おそらくウクライナ軍の行った奇襲攻撃への復讐・報復として、核兵器を使用することを容認せざるをえないと判断するのではないか。過去に行ったアメリカによる広島・長崎への核兵器使用を容認しつづけるのであれば、二人はプーチンによる核使用に反対することはないだろう。あるいは、核投下があっても、厳しい非難はしないだろう。
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もちろん、ウクライナ軍による奇襲を奇襲と認めず、ロシアによる核使用に断固反対する可能性もある。あるいは、アメリカ軍が行った日本への核兵器使用は、「戦争終結を早めるためであり、復讐や報復ではなかった」として、ロシアによる核投下に反対するかもしれない。
この反応は、むしろ、ジョー・バイデン現政権がとる可能性が高い。民主党のカマラ・ハリス大統領候補とティム・ウォルツ副大統領候補も同じ姿勢をとるだろう。彼らは、このプーチン発言を「脅し」にすぎないと主張し、ウクライナ軍への軍事支援を強化し、ロシア深部への攻撃能力をもつ武器に対する制約を解除するとの方針を明らかにして、より強気な姿勢を貫こうとする可能性が高い。そうなれば、ロシアは猛反発し、いよいよ本当に「復讐・報復」のための核使用への具体的な準備が本格化し、11月の大統領選前に核兵器が投下される可能性さえ出てくるだろう。
ただし、プーチンの「脅し」を「脅し」というようよりも「警告」と解釈し、民主党の一部はウクライナ軍の行った奇襲を非難し、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領の奇襲攻撃が「大失態」であったという批判をするかもしれない。
自民党総裁選候補者の反応は?
実際にプーチンがこうした発言をしなければ、日本の自民党総裁選への影響はないだろう。「仮定の話には、答えられない」と一蹴できるからだ。自民党総裁候補者にとっても頭の痛い事態であり、こんな想定にまともに答えるのは困難だから、候補者全員ともこうした想定自体を無視するだろう。
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だが、現実にこれに近い発言をプーチンがすれば、おそらく候補者の対応は異なったものになるだろう。まず、真珠湾攻撃が本当に「だまし討ち」であったかどうかの議論が再燃するかもしれない。ついで、広島・長崎への核兵器使用と、真珠湾攻撃という奇襲が無関係という議論も出てくるだろう。
いずれにしても、日本の主要マスメディアがあえてほとんど報道していないウクライナ軍による奇襲という事実は、日本国民に広く知られるようになるはずだ。「戦争であれば、何をしてもいいのか」という疑問は、核兵器による復讐・報復さえ容認せざるをえないという論理につながる。
さらに、中国による台湾への奇襲、北朝鮮による韓国や日本への奇襲といった事態が想定可能である以上、奇襲攻撃はどんな場合であっても許されないという議論にまで発展する可能性もある。そうなれば、ゼレンスキー大統領の行った奇襲は「絶対に容認できない暴挙」とみなされ、この政権を支援する大義はなくなるはずだ。
「レッドライン」は崩壊したのか?
「ロシアのレッドラインを越え続けるウクライナ」という8月24日付の「ワシントン・ポスト」の記事は興味深い。
ウクライナの攻撃はこれまで、表向きの「レッドライン」を何度も越えてきた。2022年の黒海の旗艦「モスクワ」の撃沈、クリミア橋爆破、クリミア半島にあるセヴァストポリの艦隊司令部に対するミサイル「ストームシャドー」攻撃、2023年のクレムリンとモスクワに対する無人機攻撃、ロシア領内の宣伝工作員の暗殺、そしてウクライナから何百キロも離れた戦略的空軍基地に対する攻撃など、枚挙にいとまがない。
加えて、ウクライナ軍が使用している西側の兵器、HIMARS、戦車、ATACMS、F-16は、いずれもかつてはレッドラインであった。
そして、この「レッドライン侵攻」の延長線上で、8月6日の奇襲が行われたことになる。ゼレンスキーは8月20日、クルスク侵攻事件を引き合いに出し、キーウが西側の武器を使用してロシアの軍事目標、例えばロシアが壊滅的なグライド爆弾攻撃に使用する航空基地などをより深く攻撃することを禁じるワシントンの制限に反対する論陣を張った(ただし、コロンビア大学国際・公共政策学部のスティーブン・ビドル教授が「フォーリン・アフェアーズ」に書いたように、「もし欧米諸国がウクライナの深部攻撃能力に対する制約を解除したとしても、戦争の趨勢に決定的な変化をもたらす可能性は低いだろう」)。
「一部のパートナーによる戦争の評価を支配していた、ロシアに関するいわゆるレッドラインという甘く幻想的な概念は、最近崩壊した」とゼレンスキーはのべるに至る。
ウクライナ・キーウ近くのイルピンの破壊された家屋に描かれたバンクシーの落書き
写真:Oleksandra Butova / Ukrinform/Future Publishing via Getty Images
アメリカを第三次世界大戦に引きずり込みたいゼレンスキー?
しかし、「本当にそうか」と声をあげる者もいる。「フィナンシャル・タイムズ」の外交担当コメンテーター、ギデオン・ラックマンは、8月26日、「ウクライナはモスクワとワシントンのレッドラインを越えた」という記事を公表した。
彼は、紛争勃発当初、ジョー・バイデン大統領が同政権に二つの目標を定めたことを振り返っている。一つ目はウクライナを支援すること、二つ目は第三次世界大戦を回避することだった。当然、この二つの目標のどちらかを選ばなければならないとしたら、アメリカは明らかに後者を選ぶだろう。
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興味深いのは、ラックマンが、「ニューヨーク・タイムズ」の安全保障担当のデイヴィド・サンガー記者が近著(New Cold Wars)の記述を紹介している点だ。そのなかで、バイデン大統領が側近に、ゼレンスキー大統領が意図的に米国を第三次世界大戦に引きずり込もうとしている可能性を示唆したこともあると、サンガーが書いているという。
ラックマンの見立てでは、ウクライナはイスラエルのやり方を真似てクルスク攻勢に出たものということになる。すなわち、ワシントンで承認されていない軍事行動に出たという。そこには、ウクライナとイスラエル双方ともに、「作戦が成功すれば、アメリカから事後承認が得られるだろう」という楽観的な想定がある。「失敗しても、最終的にはアメリカがその影響に対処する手助けをしてくれるだろう」というわけだ。
楽観論ではすまされないロシアによる核投下
こうした楽観論から、ロシアへの侵攻は、「常に核兵器使用の最後の想定されるレッドラインであった。そして、ウクライナ人はそのレッドラインを越えて進軍している」とするセント・アンドルーズ大学のフィリップス・オブライエンのような主張も生まれている。
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要するに、奇襲攻撃をしようが、ロシアに侵攻しようが、クルスク攻勢によって「プーチンの核の脅威は決定的に否定された」という者までいる。しかし、「アメリカは最後のレッドラインが越えられたとは考えていない」と、ラックマンは指摘している。
「バイデンのアドバイザーたちは、もしプーチンが自らの政権が全面敗北の瀬戸際に立たされていると信じているのであれば、ロシアは核兵器の使用に訴える可能性があると、いまも考えている」というのだ。
復讐・報復の根深さは核投下に通じている
私は、拙著『復讐としてのウクライナ戦争 戦争の政治哲学:それぞれの正義と復讐・報復・制裁』のなかで、「贈与」と「返礼」という互酬的交換には、他者に何か利益(プラス)になりそうなものを渡すという「贈与」への「返礼」、すなわち、「正の互酬性」以外にも、他者に損失(マイナス)をもたらしたケースへの「返礼」(落とし前)をどうつけるかという「負の互酬性」があると書いた。
この本は、「負の互酬性」の問題を真正面から論じた唯一の日本語の本だと自負している。だからこそ、ウクライナ軍による奇襲は必ずやロシア軍による「復讐」や「報復」につながると指摘せざるをえないのだ。そして、そこには核兵器による報復も含まれる可能性が高いのである。
塩原 俊彦
元高知大学大学院准教授
元新聞記者
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