(※写真はイメージです/PIXTA)
高齢の親の介護や住まいの選択は、家族にとって大きな決断です。自宅での生活継続が難しくなったとき、施設入所は現実的な選択肢となります。しかしその決断は、本人の生活環境だけでなく、家族関係や心理的負担にも影響を及ぼします。安全と尊厳、安心と自立――その間で揺れる葛藤は、多くの家族が直面する課題といえるでしょう。
「家に帰りたい…」特養に入所した母の一言
「もう家には戻れないの?」
面会室でそう尋ねたのは、特別養護老人ホームに入所して半年になる山本春子さん(仮名・90歳)。問いかけを受けた娘の直子さん(仮名・64歳)は言葉を失いました。
「…ここで暮らすのが安心だからね」
そう答えながらも、胸が締めつけられる思いだったといいます。
春子さんは夫に先立たれ、築50年の持ち家で一人暮らしをしていました。年金は月約13万円。住民税非課税世帯です。
転機は88歳の頃でした。転倒による骨折をきっかけに歩行が不安定になり、要介護2の認定を受けました。直子さんは車で40分の距離に住んでおり、週3回の訪問介護と見守りを続けていました。
「できるだけ自宅で暮らさせてあげたかったんです」
しかし冬場に再び転倒が起きました。幸い大事には至りませんでしたが、直子さんは強い不安を感じたといいます。
「次は命に関わるかもしれない」
担当ケアマネジャーからも施設入所を勧められました。厚生労働省『令和4年 国民生活基礎調査』によれば、要介護高齢者の主な介護者の45.9%が同居家族。別居での介護は物理的負担が大きく、継続が難しいケースも少なくありません。
直子さんは悩んだ末、特別養護老人ホームへの申請を決断しました。要介護2でしたが、独居と転倒リスクから特例入所が認められたのです。
春子さんは住民税非課税世帯であったため、特養では食費や居住費の軽減措置(補足給付)が適用され、自己負担は月8万円台に抑えられていました。特別養護老人ホームは所得に応じた負担軽減制度が設けられており、低所得の高齢者でも利用しやすい公的施設とされています。
「経済的には現実的な選択でした」
直子さんはそう振り返ります。
入所当初、春子さんは穏やかでした。
「ここは暖かいね」
スタッフにも慣れ、食事も規則的。転倒リスクも低下しました。直子さんは安心したといいます。
「これで安全に暮らせると思いました」
半年後に訪れた変化
しかし入所から半年ほど経つ頃、春子さんの言葉に少しずつ変化が現れ始めました。
「家の台所が夢に出るの」「庭の花はどうなったの?」
面会のたびに、思い出すように自宅の話をするようになりました。そしてある日、ぽつりと尋ねました。
「もう家には戻れないの?」
長年暮らした家への愛着は、想像以上に深いものでした。環境の変化が高齢者の心理に影響することは知られていますが、春子さんは認知症ではなく、現実も理解しています。それでも「自分の家に帰りたい」という思いは消えませんでした。
直子さんの胸にも迷いが生まれました。もう少し在宅を続けられたのではないか。母は本当は施設を望んでいなかったのではないか――。けれど同時に、「自宅では安全を守れなかった」という現実もはっきり分かっていました。
入所は医学的にも介護的にも合理的な判断でした。転倒リスクは減り、生活は安定しています。それでも直子さんは言います。
「母の“帰りたい”という気持ちを、私が断ち切ってしまった気がするんです」
ある日の面会で、春子さんはふと涙を浮かべました。
「ここも悪くないよ。でもね…」
その先の言葉は続きませんでした。直子さんも、ただ手を握ることしかできなかったといいます。施設入所は安全を守るための選択です。けれど本人の心が新しい環境に慣れるまでには、長い時間がかかります。
直子さんは今も週2回、面会に通っています。
「母の安全は守れている。でも、心はどうだろうって思うんです」
高齢期の住まいを決めることは、安全と尊厳、安心と自立のあいだで揺れる難しい選択です。どれほど合理的な判断であっても、家族の心に迷いや後悔が残ることは少なくありません。介護の決断とは、正解を選ぶことではなく、選んだ現実と向き合い続けることなのかもしれません。


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