
「アーネスト・サトウ公使日記」と新生・明治 【第4回】
山崎 震一
英国公使が見つめた、明治という時代
外交官として開国期の日本に大きな影響を与えたアーネスト・サトウ。彼が綴った「公使日記」を手がかりに、日本の近代化における功績と、正義感あふれる人間像を明らかにした一冊。※本記事は、山崎震一氏の書籍『「アーネスト・サトウ公使日記」と新生・明治』(幻冬舎ルネッサンス)より、一部抜粋・編集したものです。
【前回の記事を読む】岩倉具視ら107名が欧米へ旅立った明治4年、その裏で日本周辺に何が起きていたのか……?
第一章──新生明治
征韓論
日本は、明治元年に王政復古したことを、朝鮮に伝えた。しかしその国書の内容に問題があるとされ、受理を拒否された。この話を原朗著の『日清・日露戦争をどう見るか 近代日本と朝鮮半島・中国』(NHK出版)から記憶を辿ってみる。
『皇』とか『勅』という文字は、宗主国である清国の皇帝だけであり、朝鮮は日本より格下とみなされる。
これに加えて、明治6年に釜山(ぷさん)の日本公館の玄関に日本を侮辱する内容の張り紙が張られた事件が起こった。そして、一向に国交を結ぼうとしない隣国・朝鮮に使節を派遣して開国させようという方針が唱えられていた。
当時の韓国の実権は、激しい欧米嫌いの国王の生父・大院君によって握られており、日本の開国を欧米模倣であると罵り、禽獣に近づいたと云って蔑視していた。
維新政府は宋・対馬守を派遣して、国交を調整しようとしても、相手にされなかった。
ここにおいて、明治6年6月12日、朝鮮問題に対する会議が開かれ、板垣退助[注1]は「居留民を保護するのは政府の義務だから、早速一大隊の兵を釜山に送り、それから談判をやろう」と出兵論を唱える。これに対して、西郷は「それは少し過激だ。それより、平和的に堂々使節を派遣して、正理公道を説き、それで聴かなかったら公然罪を万国に鳴らして討伐すればよい」と述べた。
三条実美は、「大使を派遣するなら、兵を率いて軍艦に乗って言ったらよかろう」と言葉を挟むと、西郷は憤然として、「いや兵を率いて行くのは、所詮穏やかではない。大使たるものは宜しく烏帽子直垂を着し、礼を厚くし道を正さなければならぬ」と反対し、
「この遣韓大使には、ぜひ自分を遣って貰いたい」と提言した。大使になっていけば、韓国は必ず自分に危害を加える。そうしたら立派な征韓の名分が立つと発議した。
同年10月14日、岩倉たち帰朝後第一回の内閣会議で、岩倉は「大使を韓国に派遣することは、大戦争を覚悟した上でなければならん。朝鮮の背後には、支那もあるし、露西亜もある。迂闊に手を出して国家百年の大計を誤ってはならぬ。現状は国力涵養第一、征韓など無策、無謀である」と反対意見を披露した。
同年10月23日、西郷は参議、陸軍大将、近衛都督の職を辞する表を奉り、翌日、板垣、副島、後藤、江藤新平[注2]の諸参議もそれぞれ辞表を奉った。
樺太・千島交換条約
明治8年8月22日、露国との間に、樺太(からふと)・千島(ちしま)交換条約が調印された。日本は樺太全土をロシアに譲り、その代償として千島列島を領有することになり、駐露公使を務めていた榎本武揚[注3]が条約にサインした。
安政元年2月7日、下田で日本側全権筒井政憲[注4]・川路聖謨[注5]と露国特派大使・プチャーチンが調印した日露間の和親条約は、国境を捉択(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島の間とし、露・日両国人が雑居・共有していた樺太は国境を設けない日露通好条約があったが、種々の問題が発生したために、この条約を改定したものである。
江華(こうか)島事件
明治8年9月20日、朝鮮半島沿岸を測量中の日本軍艦二隻に対して、江華島沖で砲撃が加えられる事件が発生した。
これを契機に、日本は朝鮮に対して、開国を迫り、明治9年2月27日、朝鮮は釜山、仁川、元山を開港し、日本の領事裁判権を認めるなど、日本が列強と締結した安政条約に順じた不平等条約を締結した。
[参考:『日英交流史1600-2000 政治・外交Ⅰ』(細谷千博著、イアン・ニッシュ監修、木幡洋一ほか、東京大学出版会、p. 178)]
西南戦争
明治6年の征韓論の対立が、明治10年の西南戦争へと続く。その原因は、発展してゆく中央政府と、西郷とその私学校の古きを守ろうとする間に醸し出された矛盾対立が、遂に爆発したのである。直接の原因は、内務省発動による鹿児島県の役人の転免である。
明治9年7月、大久保は鹿児島県令、大山綱良[注6]に上京を命じ、参事課長以下の更迭を命じた。そして、私学校系の官吏を一挙に更迭し、他県並みにしようとした。木戸孝允の勧めでもあった。
この時、鹿児島県立病院の院長であった、サトウの盟友ウイリアム・ウイリスは鹿児島を離れ上京し、やむなく日本を去ることになる。
丁度サトウが賜暇を終え、日本に帰る途中で、英国公使パークスの依頼があったのだろうか、長崎から鹿児島まで歩き、西郷隆盛の出立を見届けたウイリスとその家族を東京に避難させた。
[注1] 板垣退助(いたがきたいすけ)
土佐藩主山内容堂(豊信)の側用人、討幕派の土佐藩士。明治4年参議、後藤象二郎らと民撰議院建白書を政府に提出、愛国公党や立志社を設立、自由民権運動の先頭に立つ。明治14年自由党の総理に就任、後の第二次伊藤内閣、第一次大隈内閣の内相を務めた。
明治2年明治新政府の参与となり征韓論を唱え、西郷隆盛らと共に下野、その後は国会の開設を求め、自由民権運動を展開する、岐阜で演説中刺客に襲われ「吾死するとも自由は死せん」の言葉を残す。
[注2] 江藤新平(えとうしんぺい)
佐賀藩士、維新後、司法卿として司法制度の確立に努める。参議となり、西郷隆盛らと征韓論を唱えたが、敗れて辞職し、板垣らと民撰議院設立の建白に携わる。のち、不平士族を率いて佐賀の乱を起こし、捕らえられて明治7年刑死。
[注3] 榎本武揚(えのもとたけあき)
幕臣、長崎海軍伝習所に入所、文久2年オランダ留学、明治元年海軍副総裁、函館五稜郭で官軍に抵抗、黒田清隆の庇護の下、北海道開発に従事、明治7年海軍中将兼駐露公使、駐清公使を経て第一次伊藤内閣逓相、黒田内閣農商務相、第一次山縣内閣文相、第一次松方内閣外相。
[注4] 筒井政憲(つついまさのり)
江戸時代後期の旗本、伊賀守、長崎、南町奉行。大目付を歴任。
[注5] 川路聖謨(かわじとしあきら)
幕末の旗本、勘定奉行。
[注6] 大山綱良(おおやまつなよし)
文政8年樺山善助の次男として鹿児島に生まれる。幼名は熊次郎、通称は格之助。嘉永2年大山四郎助の婿養子となる。
示現流剣術の達人、島津久光の上洛に随行し、文久2年寺田屋騒動では、藩主の命令で過激派藩士の粛清に加わった。
明治元年の戊辰戦争では奥羽鎮撫総督府・下参謀。大山率いる新政府軍は庄内藩に連戦連敗を喫した。
新政府では廃藩置県後に鹿児島県の大参事、権(県)令となり、西郷隆盛らの私学校設立などに積極的に援助した。西郷軍の敗北後、逮捕され刑死する。
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ゴールドライフオンライン編集部:glo_henshu@gentosha.co.jp
※本記事は、2026年1月刊行の書籍『「アーネスト・サトウ公使日記」と新生・明治』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。

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