神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか?
右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。
歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。
※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。
「皇軍発祥之地」と「日本海軍発祥之地」
宮崎県には、日名子実三の設計になる記念碑があとふたつ存在する。1941(昭和16)年、皇居屋に建てられた「皇軍発祥之地」碑と、翌年9月、県北部の美々津(みみつ)町(現・日向市)に建てられた「日本海軍発祥之地」碑である。八紘之基柱とあわせて、これらを日名子三部作という。
皇居屋の記念碑は石組みの四角柱で、正面に矛がかたどられ、そのなかに「皇軍発祥之地」の文字が刻まれている。揮毫したのは陸相や参謀総長を務めた杉山元(すぎやまげん)。宮崎神宮摂社の皇宮神社の南にひっそり立っており、筆者が訪問したときは雑草が生い茂っていた。細部のデザインはともかく、よく見かけるタイプの造形である。
これにくらべて、美々津の記念碑は波頭のかたちをしており、とても特徴的だ。海辺に鎮座する立磐(たていわ)神社のすぐそばにあり、保存状態も悪くない。近くの看板によると、八紘之基柱のように戦後碑文が破壊されたものの、1969(昭和44)年に復元されたという。その碑文「日本海軍発祥之地」は、首相、海相を歴任した米内光政(よないみつまさ)によって揮毫された。
あらためていうまでもなく、このふたつの記念碑はそれぞれ陸軍と海軍を代表するものだった。なにかにつけていがみ合っていた両者に配慮するように、両方とも高さは約13メートル。なお石材は、八紘之基柱で集められたものの残余が使われた。
それにしても、陸軍の記念碑が皇居屋にあるのはいいとして、海軍の記念碑が美々津という聞き慣れない場所にあるのはなぜなのか。その理由は、ここが神武天皇が東征へと船出した場所だといわれていたからである。
1940(昭和15)年、やはり大阪毎日新聞社などの主催で「神武天皇御東行順路漕舟大航軍」なるキャンペーンが行われた。宮崎県西都原(さいとばる)古墳群より出土した舟形埴輪をモデルに復元された古代軍船「おきよ丸」を、美々津から大阪の中之島までじっさいに航海させ、そこからさらに陸路で橿原神宮まで運ぶという大掛かりなものだった。
「おきよ丸」は、神武天皇が乗ったとされる船名である。記紀にはみえないものの、美々津では神武天皇が船出するに際して随伴する兵士たちを「起きよ、起きよ」と起こしたとの伝承が残っており、船名もそこからつけられた。
現在、美々津の古民家を改装した日向市歴史民俗資料館には、「おきよ丸」の模型などが展示されている。そして伝統的建造物群保存地区に指定されている町中を歩くと、同船を彫刻した木製の郵便ポストまで散見される。神武天皇の伝説はここではまだ生きているのだ。
なぜ宮崎は「神話県」になったのか
このように宮崎県はまことに神話県である。
いまや空港に降り立つと、神話のステンドグラスが迎えてくれる。2019(令和元)年、影絵作家の藤城清治(ふじしろせいじ)の原画をもとに、ステンドグラス工芸家の臼井定一(うすいさだいち)によって制作されたもので、アマテラス、スサノオ、アメノウズメ、ニニギ、イワレヒコなど錚々たる神々が登場している。電車できても、飛行機できても、宮崎県では神話と無縁ではいられないのだ。
だけれどもそのイメージは、かならずしも昔からつづくものではなかった。というのも、戦前は鹿児島県もまた「肇国聖地」としてみずからを売り出していたからである(「肇国」とは、新しく国を建てること)。
その証拠に、神武天皇が出航した記念碑は鹿児島県にも立っている。肝属(きもつき)郡東串良(ひがしくしら)町の小高い丘に立つ「神武天皇御発航伝説地」がそれだ。背面には揮毫者として、紀元二千六百年鹿児島県奉祝会総裁の島津忠重(しまづただしげ)公爵の名前が記されている。
なぜこんなことになったのか。それもこれも、『古事記』や『日本書紀』に具体的な地名が記されていないことが原因にほかならない。『古事記』にはただ、神武天皇たちが高千穂宮にいて日向から出発したとあるのみ。『日本書紀』にいたっては、まったく地名が出てこない。美々津というのは、あくまで地元の伝承にすぎなかったのだ。
日向というと、宮崎県の旧国名だと考えられている。ただ八世紀以前は鹿児島県と宮崎県を含む広い地域を指していた。これまで神武天皇の出発地を「南九州」というぼんやりとした表現をしてきたのはこのためだった。
同じような事情は、天孫降臨の地とされる高千穂でもみられた。しばしば触れてきたように、高千穂は、宮崎県北部の西臼杵(にしうすき)郡高千穂町と、同県と鹿児島県の境に位置する高千穂峰の二説が存在する。そのため、ここでもまた宮崎県と鹿児島県のあいだで争いが起こった。
現在からすると鹿児島県の頑張りようが意外かもしれない。鹿児島県の歴史的観光資源は、神話というより明治維新ではないかと。だが、神話にかんするコンテンツもけっして見劣りしなかった。
じつは鹿児島県には、神代三陵(じんだいさんりょ)うが揃っていた。神代三陵とは、神武天皇の祖先三代の陵墓、すなわちニニギの可愛えのみ山陵ささぎ(薩摩川内せん だい市)、ホホデミの高屋山(たかやのやま)の上陵(えのみささぎ:霧島市)、ウガヤフキアエズの吾平山(あひらのやま)の上陵(えのみささぎ:鹿屋市)だ。その候補地は九州各地にあるものの、1874(明治7)年、すべて鹿児島県内に治定されていた。
つまり当時宮崎県はかならずしも優勢ではなく、なんとしても鹿児島県に対抗しなければならなかった。そこで反撃のシンボルとして建てられたのが、ほかでもない八紘之基柱だった。そしてその試みは、相川知事の尽力や大阪毎日新聞のメディア・キャンペーンによって一定の成果を収めた。いや、現在の神話県としてのプレゼンスにかんがみれば、勝利したといってもいいだろう。
たしかに、このような宮崎県の試みはもっぱら地域振興と結びついており、政府主導のピラミッド型の国民動員とは異なる。だが、「上からの統制」のみならず「下からの参加」があったからこそ、神話国家としての日本は成り立っていたのである。神話との関わりはこの全体でとらえなければならない。
さらに連載記事<靖国神社は「上から7番目」…日本人が意外と知らない「神社には序列がある」という「驚きの真実」>では「戦前の日本」の知られざる真実をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。
*本記事の抜粋元・辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書)では、「君が代はなぜ普及したのか?」「神武天皇によく似た「ある人物」とは?」「建国記念の日が生まれた背景とは?」……といった様々なトピックを通じて、日本人が意外と知らない「戦前の日本」の正体を浮き彫りにしていきます。「新書大賞2024」で第7位にランクインした、「ためになる」「わかりやすい」と話題のベストセラーです。
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