『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザーPART Ⅱ 』と並んで、フランシス・フォード・コッポラを代表する映画と言っても良いだろう。
私自身は、マフィア映画に興味がなかったため、いまだ「ゴッドファーザー」三部作はいずれも見ていない。
だが、戦争映画には興味のあったから、本作『地獄の黙示録』については、たぶん、ずいぶん若い頃にテレビで見ている一一はずなのだが、実のところあまりハッキリした記憶がない。
とにかく、「ベトナム戦争もので、川を遡り奥地へと向かう話」くらいの印象はあるのだが、それとても、5年前に本作の原作である、ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』を読み、そのレビューを書いた際に、併せて『地獄の黙示録』のWikipediaを読んだために、後になって形成されたイメージなのかも知れない。
昔、見ているはずなのだが、いずれにしろ、ほとんど印象に残らなかった作品というのが、私にとっての『地獄の黙示録』だったのだ。
だが、そんなコッポラ作品を、今になって、ちゃんと見ておきたいなと思うようになり、単発作品である『地獄の黙示録』を、先に見ることにしたのである。
さて、今回『地獄の黙示録』を見て、まず思ったのは、「これを若い頃に見ても、ほとんど理解不能だっただろうな。だから、記憶にも残っていないんだ」というようなことであった。
本作は、たしかに「戦争映画」ではあるけれど、「戦争活劇」的な娯楽性はまったく無いと断じてもいい、暗く歪んだ長い作品である。
たしかに、「反戦」的と取れる描写やセリフもあるけれど、当時の空気をストレートに反映した、「ベトナム反戦」的な映画かというと、そうではないのだ。
そうした「政治的なメッセージ」臭はきわめて薄く、「黙示録(アポカリプス)」という言葉が示すように、もっと暗い、普遍的な終末的世界観の描かれた「思弁的な作品」といった印象の方が、はるかに強いのである。
つまり、本作を「反戦映画」だと考えるのは、ほとんど間違いであろうし、「戦争映画」と捉えることさえ、皮相な評価としか言えないのではないか。一一そんな印象が強い。
そうしたことを特に強く感じさせられるのは、たぶん、本作の後半、カーツ大佐(マーロン・ブランド)が、ベトナムのヌング川奥地に築いたという「独立王国」の描写が、およそリアリティの無いものであり、「寓話」臭の強いものであったからだ。
いくらカーツが、知性・人格・芸術的な才能などを兼ね備えた、およそ欠けるところのない完璧な軍人であったとしても、現代の近代化された「現地住民」たちが、白人の軍人である彼を、「神」と崇めて服従し、独立王国を作るなどというのは、およそ現実にはあり得ない、「お伽話」に類するものだからである。
無論、少数の現地人や、元部下の軍人などがカーツに心酔し敬服したという程度の話のならわかる。
だが、本作に描かれているそれは、小さいながらも「独立王国」と呼ばれるほどの規模のものなのだ。
ではなぜ、カーツが「神」と崇められる独立王国を作ったなどという、突拍子もない物語になったのかと言えば、それは原作であるコンラッドの『闇の奥』の、カーツに当たる「クルト」という人物は、貿易会社の現地支配人であり、舞台は19世紀のアフリカ・コンゴ王国で、西欧の列強諸国がアフリカ大陸への収奪的な貿易を進めていた、そんな時代だったからであろう。
つまり、その時代の、まだ西欧文明に染まっていないアフリカの素朴な原住民たちなら、西欧から持ち込まれる品々に幻惑翻弄されたとしても不思議ではないし、騙され欺かれもしただろうということだ。
例えば、西欧から持ち込まれた先進的な技術に驚かされ、そうしたものを巧みに操る見慣れぬ「白い人」を、彼らが神と見誤って崇めたいったことなら、まったくあり得ない話ではないのではないだろうか。

(前線に慰問に訪れた『プレイボーイ』誌のプレイメイト。さながら「白い神」だ)
コンラッドの『闇の奥』では、コンゴ川の奥地で、現地住民を采配する、貿易会社の有能な現地支配人であるクルツは、仕事ができ、人格的にも優れていたことから、いずれは会社幹部になることを嘱望されながらも、しかし最後は、その奥地に止まることを選んだ人物として描かれる。
そして、クルツに興味を持った、語り手の船員マーロウ、クルツが原住民から「神」と崇められていたという話を、耳にするのである。
つまり、『闇の奥』での時代的に「あり得た話」を翻案して、半ば無理やり、ベトナム戦争時代(現代)のベトナムへと舞台を移し替えたために、クルツに当たるカーツの「独立王国」という設定は、余計に「無理な話」になってしまったのであろう。
クルツでさえ、昔のアフリカ原住民から神と崇められはしても、独立王国を作ったわけではない。
あくまでも、彼個人が現地に魅入られた人に過ぎなかっただけなのに、本作『地獄の黙示録』では、いささか話が大ごとになり、その点で、リアリティが無くなってしまったのだが、しかしその分、寓話的な色彩も強くなったのである。
そんなわけで、本作『地獄の黙示録』は、反戦的なメッセージが語られる部分もあるとは言え、基本的には「戦争のもたらす狂気」を描いた作品だというのが、おおよその通り相場なのであろう。
カーツの築いた「独立王国」というのは、あくまでも、戦争の生んだ狂気の「誇大妄想的な象徴」だと考えれば、ひととおりの説明はつくのである。
しかしながら、私が本作『地獄の黙示録』を見ていて感じたのは、この作品で描かれた「狂気」とは、「戦争の狂気」といった限定的なものではなく、もっと本源的なものなのではないか、ということだった。

(「戦争の狂気」と言うなら、カーツの前に、この騎兵隊気取りのキルゴア中佐がいる。ベトコン村を殲滅した後の川辺で、サーフィンをしようとする)
(有名なベトコン村の襲撃シーン。ここでかかる曲ワーグナーの「ワルキューレの騎行」は、映画のBGMというだけではなく、キルゴアがベトコンを威嚇するためにヘリから大音量で流させるという劇中のものでもある)
つまり、カーツの完璧に等しい「近代的な人格」が、戦争を介することで、近代的な理性の奥に封印されていた、人間精神の「闇」の触れた結果、その近代的理性は限界に達して破綻することで、近代的な立場から見れば「狂気の王国」としか呼びようのない、あちこちに死体の転がる、「気まぐれな神の支配する王国」という形象を採ることになったのではないだろうか。


(カーツの独立王国にたどり着いたウィラードを迎えたのは、王国に住み着いたというアメリカ人報道写真家。彼が王国内を案内するが、ところどころに死体が吊されたり(上の写真)転がったりしている)
近代的理性の人であり人格者であったはずのカーツが支配する王国に、どうして多くの死体が転がっており、それでいて、現地の住民たちは、まるで当たり前の顔をして、その王国で生活しているのか?
こんなことは現実にはあり得ないのだが、しかし、近代的な理性が破綻した先の「本源的な闇」に支配された「奥」の世界では、もはや「生死の区別」すら無くなっているのではないだろうか。
死が、必ずしも不幸を意味する世界ではなくなっているからこそ、人々は死体の転がる中で、当たり前に生活しているのではないか。

(ウィラード一行のボートを出迎えた独立王国の住民たちは、まるで『キングコング』に登場する「土人」にようにしか見えないアナクロニズムだ)
王国には、カーツに心酔してそこに住みついている、ヒッピー風のアメリカ人の報道写真家(デニス・ホッパー)が登場し、(『闇の奥』の語り手の船員マーロウに当たる)カーツ暗殺の密命を受けた軍人ウィラード(マーティン・シーン)に、カーツを次のように紹介する。
「カーツは、基本的には優れた人格者だけれど、その一面きまぐれであり、突然人々を殺したりすることもある。けれども、人々は彼を尊敬して神と崇めている」

(カーツの独立王国に住み着いている、アメリカ人報道写真家)
(カーツ暗殺の密命を受けたアメリカ軍人・ウィラード大尉)
つまり、近代的理性に基づく価値観からすれば、カーツは賢くて有能かも知れないが、情緒不安定な危ない奴ということにしかならないのだが、それでもなぜか、すでにそれなりに近代化されているはずの現地人も、アメリカ人の報道写真家の男でさえも、そんなカーツに心酔してしまう。
つまりこうした点で、あまりリアリティのない「設定」ということになる。
さらに、もともとカーツは、人格円満で完璧な人だったのに、どうしてこんなふうに変わってしまったのかという疑問を考え合わせると、一一私が想像するに、「川を遡る」というのは、理性を司る意識の表層部分から、より深い場所にある「生物的な本能」を司る部分への遡行の寓話なのではないか、というようなことになる。
つまり、そうして深域(奥地)に達すると、もはや「近代的理性」は、その論理的な統合を保てなくなって崩壊し、そこへ動物的な存在としての「反倫理性=無倫理の闇」が浸潤してくる、というようなことなのではないか。
近代的理性と人格を兼ね備えた完璧な人だったカーツは、その「完璧主義」的な探究の果てに、人間の域を脱して、「神」に近づいてしまったのではないか。
そしてカーツが近づいていったその「神」とは、人間の作った神、例えばキリスト教の「愛の神」みたいにわかりやすい、人間都合の神ではなく、もっと原初的な神であり、人間の理解を超えた「自然としての神」だったのではないか。
だからこそ、人間の論理的かつ倫理的な視点から見れば「気まぐれ」「乱暴」ということにもなったのではないだろうか。
つまり、本作『地獄の黙示録』というのは、戦争を描いたのではなく、戦争が垣間見せてくれる「狂気」こそが、実は人間の「本源的な姿なのではないのか」という「暗い予感」とでも呼ぶべきものを描いた作品なのではないだろうか。
私は、コンラッドの『闇の奥』を読んだ時にも、大筋で似たような感想を記していたのだが、その際には『闇の奥』の思弁的な暗さに比べれば、『地獄の黙示録』の方は、戦争という具体的なものを描いているから、そのぶん比較的「わかりやすい」みたいなことを書いていた。
だがこれは、たぶん『地獄の黙示録』のことをほとんど記憶していなかったからに過ぎないと、今となってはそう思える。
なぜなら、どう考えたって、カーツという存在は、理解不能だからである。
だが、もしも彼が「人間理性を踏み越えていった、闇の中の人=暗い神」なのだとしたら、それを理性によって「理解」できないというのは、むしろ理の当然だろう。

(最後はアメリカ陸軍特殊部隊(グリーンベレー)の大佐だった、ウォルター・E・カーツ)
つまり本作は、理性では理解し難いものとしての「人間の本源的な姿」という「不安な予感」を描いたものであり、それは理解されてはならない「謎」として描かれた、というようなことなのではないだろうか。
無論、こうした「暗すぎる予感」について不安というのは、ベトナム戦争の行き詰まりが生んだものなのであろう。
だが、そこに生み出されたものは、ベトナム戦争すら超えた先にある「絶望的な本質的人間観」であり、だからこそカーツは、最後に「恐怖だ」と言い残して死んでいったのではないだろうか。
人間理性的な探究を徹底していった先にあったのは、人間理性の耐えることができない、深い「闇」だったのではないか。
言い換えれば、人間の理性とは、真実の闇を見ないようにするための、目眩し装置であり、麻薬のようなものだったのではないのか…。
「理性の人」カーツは、そんな「不安と恐怖」を感じていたのではないだろうか。






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