〈昨年10月、第81代内閣総理大臣を務めた村山富市氏が亡くなった。その人柄を、10月まで総理を務めた石破茂氏が偲ぶ。村山氏の『戦後50年談話』から30年、『戦後80年所感』を出した石破氏。その1週間後、所感を見届けるように村山氏はこの世を去った。二人を巡る“不思議な縁”とはーー〉
村山総理との戦いだと思った
石破茂前総理(68)が「戦後80年所感」を発出した10月10日から7日後の17日、「戦後50年談話」を発出した村山富市元総理が老衰で亡くなった。亨年101歳。長い眉毛がトレードマークで、庶民的な人柄から「トンちゃん」の愛称で親しまれた。
総理就任は本人が望んだものではなく、政治の変革期での奇妙な巡り合わせであった。
1994年6月、羽田内閣が64日で退陣すると、当時の野党であった自民党は社会党委員長の村山氏を第81代の総理に担ぎ上げ、自社さ政権を樹立。意表を突いた策で自民党は政権に返り咲くも、村山氏は総理就任直後の所信表明演説で、自衛隊を合憲と認め、日米安全保障体制を堅持、日の丸・君が代を容認すると表明し、社会党の基本政策を一転させた。
当時、新生党の三回生議員だった石破氏はこう振り返る。
「奇策で村山政権ができた、あのときほど政治に絶望したときはなかった。昨日まで自衛隊を違憲と言っていた、その人が最高指揮官となった。こんなおかしな話があるのか、と憤ったんだ。村山さんは社会党の国会対策委員長も務めたから、実は自民の幹部とも親密な関係にあった。
国対を通じた信頼関係があったから、実はあまり違和感はなかったんでしょう。でも当時の私はそんなことは知らないし、『なんだか性格はいい人らしいが、こんな理屈に合わないことはない』と不倶戴天の敵のように思っていました」
村山政権で1995年7月の参院選を迎えると、新進党に所属していた石破氏は自民党を離党した県議の常田享詳氏(たかよし・82)を擁立し、自身の選挙以上に鳥取県内を巡った。
「自民+社会vs.新進党という壮絶な選挙だった。私は自分vs.村山総理の戦いだと思って、ものすごい気合でやった。理屈に合わない自社さ政権に負けるわけにいかないと思ったから」
政界引退後は地元・大分県で過ごしていた
「村山さんが果たした歴史的な役割は大きい」
それでも永田町で過ごす時間が長くなるにつれ、村山氏の飾らない性格に石破氏の思いも変化していった。村山氏は飛行機の移動ではエコノミーに乗り、料亭にも足を運ばず、総理公邸でも娘さんが作ってくれたおにぎりや味噌汁、干物を食べていたという。
「贅沢や華美とは遠いところにいたい人だったんでしょう。パフォーマンスで清貧を演じていたのではなく、根っから、高級料亭、ファーストクラスのようなものに居心地の良さを感じなかったんだと思います。『わしが居る場所じゃないんじゃ』と話している村山さんが目に浮かびます。永田町でも人柄を悪く言う人はいなかった」
冒頭に記したように、歴史の巡り合わせで石破氏と村山氏には縁があるようだ。1995年、村山氏は『戦後50年談話』で、「植民地支配と侵略への反省と心からのお詫びの気持ち」と明記。歴史認識を巡る議論がいまも残るが、アジア諸国との関係改善に一役買ったことは揺るがない。石破氏は折に触れ「戦争に行ったやつが、この国の中心からいなくなった時が怖い」という田中角栄元総理の言葉を引用し、「戦争の記憶」を継承する重要性について語っている。
「戦後50年以降、歴代内閣が10年ごとに60年の小泉談話、70年の安倍談話、そして80年の私とその歴史認識を引き継いだ。日本社会党はなくなったけど、村山さんが果たした歴史的な役割は大きいと思います。小泉さん(純一郎・84)も安倍さん(晋三)も踏襲し、私も村山さんの『惨禍を繰り返さない』との思いを継承しました。
過去について、アジア諸国、国際社会に対する発信は村山総理の談話で十分だと思っています。しかし未来に対して、国内に対して、どうあるべきかとの観点から発せられた70年談話の延長線上に、特になぜあの無謀な戦争に突っ込んだのか、それを政治として検証するべきだと思いました。80年所感の意味はそこにあると思っています」
一部の元総理は引退後、永田町付近に事務所を開設し、影響力を残そうとする。村山氏は引退すると大分に戻り、一市民として過ごした。そして近所の人から「トンちゃん」と呼ばれ、昨年10月17日、静かな最期を迎えたーー。



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