出撃前、18歳特攻兵は謝罪と感謝をつづった。相手は継母。ついぞ言えなかった言葉を最後に3度、力を込め書いた ミズーリ記念式典で朗読

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式典で読み上げられた相花信夫少尉が母親に宛てた手紙=南九州市の知覧特攻平和会館

 「お母さん、お母さん、お母さん」-。米ハワイの戦艦ミズーリ記念館で11日にあった追悼式典。鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館の川崎弘一郎館長(57)は、旧陸軍知覧飛行場を飛び立ち戦死した相花信夫少尉(享年18歳)=宮城県出身=が継母に宛てた最後の手紙を読み上げた。「特攻隊員の心情を多くの人に知ってもらえたのではないか」。式典後の取材に答え、恒久平和への決意を新たにした。
 平和会館によると、相花少尉は少年飛行兵として太平洋戦争末期の1945(昭和20)年5月4日に出撃した。4歳のときに実母を病気で亡くし、6歳から継母に育てられたが、実母への思いが強くなじめなかった。出撃を前に、育ての親へ謝罪と感謝の念をしたためたという。
 同館に展示してある手紙には、「永い間本當(ほんとう)に有難(ありがと)うございました」「遂(つい)に最後迄(まで)『お母さん』と呼ばざりし俺」「なんと意志薄弱な俺だったらう 母上お許し下(くだ)さい」「今こそ大聲(おおごえ)で呼ばして頂きます」などと記されている。
 姉妹館提携協定を結ぶ両館は、2015年からミズーリ記念館で特攻の展示をしたり、記念館が特攻機の破片を平和会館に寄贈したりと交流を続ける。今回は、これまで米側で展示されていない遺書や手紙の中から、家族への思いがより強く伝わるものを選んだ。
 川崎館長は「必ず死ぬという特攻作戦。守りたい家族、会いたい人がいた。出撃した人の心情を世界中の人が知る機会になってほしい」。塗木弘幸南九州市長は「国や言葉が違っても、人間として平和への思いを共有できた。これからも知覧から訴えていく」と語った。
 ミズーリは1945年4月、喜界島沖で鹿屋出撃機の特攻を受け、今も損傷の跡が残る。日本の降伏文書の調印式場にもなり、99年からは戦艦ミズーリ記念館となっている。知覧特攻平和会館とミズーリ記念館は、手を携え戦争を語り継ごうと、2020年に姉妹館提携協定を締結するなど交流を深めてきた。

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