豊臣秀吉、秀長兄弟の九州攻め 先鋒隊の足跡が薩摩川内市のあちこちに…丘に城を構築、新田神社には兵士の略奪禁じる札 | きばいやんせ!鹿児島

豊臣秀吉、秀長兄弟の九州攻め 先鋒隊の足跡が薩摩川内市のあちこちに…丘に城を構築、新田神社には兵士の略奪禁じる札

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新田神社に立てられた禁制の札(複製)。乱暴や放火を禁じる内容=薩摩川内市の川内歴史資料館

 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」が1月に始まり、天下人豊臣秀吉と弟の秀長に注目が集まっている。2人は天正15(1587)年の九州攻めの際に南九州まで侵攻。対抗した島津氏は大軍に押され、当主義久が鹿児島県薩摩川内市の泰平寺で秀吉に降伏した。鹿児島県の薩摩川内市、さつま町、伊佐市の3市町に残る「秀吉の道」を歩き、ゆかりの場所や資料を紹介する。(連載「探訪 秀吉の道」より)
 薩摩川内市には、豊臣秀吉が九州攻めで着陣するまで、先鋒(せんぽう)隊が島津軍との戦に向けて準備した跡が残っている。市街地を望む丘に城を構築。島津軍の反降伏派とは攻防戦を繰り広げた。自軍の略奪行為などを禁ずる札も立てた。
 川内市史などによると、先鋒隊が川内川河口に入ったのは天正15(1587)年4月25日。秀吉が本陣とする泰平寺(大小路町)や、反降伏派が拠点とする平佐城を一望できる場所を選定。猫岳(高江町)、猪子(いのこ)岳(同)、安養寺(宮里町)にそれぞれ城を築いた。
 標高約120メートルで最も高い猫岳は、今では階段が整備され登りやすい。約15分で到着した頂上には雑木が茂り、市街地を望めなかった。案内板に「平佐城を攻めるため数日間陣を張ったといわれている」とあった。
 先鋒隊は川内各所で略奪や乱暴を働いたようだ。宝物を奪われると危機感を抱いた新田神社の憲春法印が天皇家とのゆかりを説いたことで、境内に秀吉軍が自分たちの行動を戒める「禁制の札」が立てられた。4月27日付けで、小西行長ら4武将の連名だ。
 札が立てられた場所は定かではなく、神社は「参道の中腹より下ではないか」とみる。現物は川内歴史資料館で保管されており、複製が九州攻めの資料とともに展示されている。
 翌28日には、平佐地頭・桂忠昉(ただあきら)ら約300人が籠城して「平佐城の戦い」が始まる。数千人とされる秀吉軍を相手に半日近く攻防。いったん休戦となったところで、島津義久からの降伏勧告で終結した。城のあった場所も分からないが、平佐西小学校(平佐町)内に城跡を示す石碑が立っている。
 資料館の吉本明弘学芸員(48)は「九州攻めは天下統一の先にある、明征服への足がかりだったのだろう。秀吉が来たことで時代が移り変わっていく。川内がその舞台になったのは興味深い」と話す。
=随時掲載

  • 平佐城があったことを示す石碑=薩摩川内市の平佐西小学校
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