囚人となった「明治の薩摩武士たち」…炎の中で示した「ラストサムライの矜持」 | きばいやんせ!鹿児島

囚人となった「明治の薩摩武士たち」…炎の中で示した「ラストサムライの矜持」

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囚人となった「明治の薩摩武士」炎の中で示した「ラストサムライの矜持」

明治10年の西南戦争で敗れ、政府に刃を向けた「国事犯」として全国の監獄に送られた薩摩武士たち。
宮城県には305人が収監され、そのうち13人が獄中で亡くなり、7人の墓が東北・仙台の寺に残っている。
前編 「明治のラストサムライ」305人、東北に残した足跡 囚人として、武士として生きた薩摩の男たち では、西南戦争の激戦地で戦い、異郷に散った「七士」の人生をたどった。(本記事は前・後編の後編)

戊辰戦争では「官軍」として東北を攻めた薩軍は、西南戦争では逆に「賊軍」として討たれ、東北で囚人となっていた。

だが、彼らを「哀れな敗者」として見た人ばかりではなかった。

彼らが東北の人々の心を強く動かした「ある出来事」があった。

囚人たちのリーダー格、西郷隆盛の叔父

彼ら国事犯たちの態度は、「囚人」という枠には収まらないほど毅然としていたと伝えられている。

自ら願い出て、宮城県内の仙台、塩釜、野蒜、雄勝などで、開墾や港の工事など公共事業にもあたった。

その中心にいたのが、西郷隆盛の叔父にあたる椎原国幹(しいはら・くにもと)だった。

椎原国幹(しいはら・くにもと)
文政3年(1820年)生まれ。西郷隆盛の実母の弟で、隆盛の叔父にあたる。西南戦争では五番大隊の大小荷駄(補給部隊)などを務め、延岡で降伏。懲役2年の判決を受け、宮城県へ送られた。 当時58歳で、国事犯たちの長老格としてリーダーシップを発揮。その高潔な人格は監獄職員からも一目置かれ、時には獄外へ出て馬に乗り、松島などに行くこともあったという。


椎原国幹が供養を依頼した「鹿児島県人七士の墓」(宮城・瑞鳳寺)

西南戦争で負った傷や病気で「七士」が相次いで亡くなった翌年の明治13年(1880年)。生き残った彼らの仲間たちが、その「サムライ精神」を発揮し、東北の人々を感動させる出来事が起きた。

仲間たちが見せた「薩摩魂」 猛火に立ち向かった勇気

2月3日未明、国事犯たちが硯(すずり)の原石採掘などの作業のために派遣されていた宮城県雄勝町(現在の石巻市雄勝町)で、火災が発生した。

当時の『仙台日日新聞』は、80年来という大火に見舞われた現地の混乱を伝えている。強風にあおられた炎は猛威を振るい、住民たちはなす術もなく立ち尽くすばかりだったという。

そこに駆けつけたのが、国事犯を含む囚人たちだった。

「自分たちなら消せる」 看守とともに陣頭指揮を執ったのは、国事犯の石原近秀らだった。

国事犯を長年研究している宮城県の郷土史家・柴修也さんによると、石原らは水をかけるのではなく、周囲の建物を壊して延焼を防ぐ「破壊消防」を行った。

この時、活躍したのは武士たちだけではなかった。現場には一般の囚人たちも共に派遣されていた。

彼らは石原ら国事犯の指揮のもと、身分や罪状の違いを超え、一丸となって猛火に立ち向かった。

炎の中で助けを呼ぶ声が…

必死に火を食い止めていると、「助けて!」と叫ぶ声があった。炎に包まれた家に、老女がひとり取り残されていた。

周囲の住民らは、あまりの火勢に恐れをなし、誰も助けようとする者はいなかったという。

その時、3人の囚人が迷わず炎の中へ飛び込んだ。 彼らはすぐに煙に巻かれ、姿が見えなくなった。

人々が「ああ、3人もろとも灰になってしまうのか…」と固唾を飲んで見守る中、やがて3人は老女を抱えて炎の中から生還した。老女の命に別状はなかった。

国事犯や一般の囚人らが力を合わせた命がけの活動で火災は鎮火。

当時の新聞は、「監獄があったおかげで不思議な幸福があった。彼らの行動に住民はみな深く感銘を受けていた」と記した。

この時、消火活動に特に尽力したとして、国事犯の石原近秀池田兼長東郷七之丞の3名らが減刑となっている。

3人の経歴 実戦を生き延びてきた強者たち

彼らもまた西南戦争で部隊の指揮などにあたり、実戦をくぐり抜けてきた強者たちだった。


『鹿児島征討一覧』明治11. 国立国会図書館デジタルコレクション

石原近秀:西南戦争では振武第十一番中隊長。政府軍の兵百余名を倒した百引の戦いを現場で指揮。
池田兼長:破竹一番中隊長などを歴任。熊本攻城戦から各地の防衛戦まで、最前線で部隊を率い続けた指揮官。
東郷七之丞:西郷軍の大小荷駄掛(兵站責任者)として、戦場での物資輸送や補給を担った。

七士たちはこの活躍を見ることはできなかったが、彼らの仲間が見せたこの行動こそが、彼らが単なる「反逆者」ではなく、義に厚い薩摩武士であったことを物語っている。

 

現代に受け継がれる思い

各地に収監されていた約2700人の国事犯たちは、明治16年までに判決より短い刑期で釈放された。

明治12年、椎原国幹は、恩赦を受けて帰郷することになった。その際、彼は亡くなって瑞鳳寺に葬られた同志たちのために、自身の預かり金の利子であった30円(現在の価値で数十万円以上)を「永代供養料」として寄進した。


墓石には「三拾円」と椎原国幹の名前が刻まれている

しかし、長い年月の間に、この墓の存在は歴史の中に埋もれていった。

再び光が当たった「鹿児島県人七士」

再び光が当たったのは、明治100年にあたる昭和43年(1968年)のことだ。地元の郷土史家らが埋もれていた墓を発見し、宮城県にあった「九州人会」の会員らが資金を出し合って整備したのだ。

2025年5月に筆者が訪ねた際、瑞鳳寺の墓地には「七士の墓」の由来を書いた案内板が立ち、墓はきれいに整えられていた。

瑞鳳寺の住職、鎌田宗州さん(87)は語る。


七士の墓の前に立つ 瑞鳳寺住職・鎌田宗州さん

「宮城の鹿児島県人会の人たちが、お彼岸の時期には必ずお参りにいらっしゃいます。その時は、県人会の皆さんがお花とお線香を供えておられます。私もお経を上げさせて頂きます」

「花と焼酎を毎年」七士の墓を守る 宮城の鹿児島県人会の思い

「みちのく宮城鹿児島県人会の発足は、この七士が縁なんです」

そう語るのは、同県人会の辻隆一会長(仙台市)だ。七士の墓を維持管理するために、昭和49年に鹿児島県人会が発足したという。現在は80人ほどの会員がいる。

県人会では、毎年9月第1週の土曜日に、お彼岸の供養として七士の墓参りが恒例となっている。掃除をして花や線香、焼酎を供え、詩吟の「城山」を奉げる。


詩吟「城山」を捧げる 毎年9月に続けている墓参(みちのく宮城鹿児島県人会提供)

孤軍奮闘 囲みを破って還る
一百の里程 塁壁の間
吾が剣は既に折れ 吾が馬は斃る
秋風 骨を埋む 故郷の山

(詩吟 城山)

この詩吟は、犠牲を出しながらも政府軍の囲みを破り、九州各地を転戦しながら険しい道のりを越えて故郷・鹿児島の城山へ帰還した西郷軍の姿をうたったものだ。

七士の有馬純俊らが、実際に官軍の包囲網を突破して城山を目指し、そして敗れてこの地に葬られたことを思うと、その歌詞はいっそう胸に迫る。

辻会長は、墓前に立つときの思いをこう話した。

「県人会のスタートは、この七士の墓が縁でした。非業の死で異郷に骨を埋める無念はあったと思います。私たちも、故郷の鹿児島を離れて暮らしています。郷里を忘れない、思いを馳せるという気持ちで、彼らに手を合わせています」

「涙が止まらなかった」あの人物の子孫、130年の時を超えた墓参り

「七士の墓」は、元宮城刑務所職員で郷土史家の柴修也さんが、1990年に長年の調査をまとめ、『西南戦争余話 宮城県に配置された国事犯』を発表したことで注目された。

折しも大河ドラマ「翔ぶが如く」の放送と同じ年で、南日本新聞などで取り上げられて鹿児島でも光を浴びた。

明治10年(1877年)の西南戦争。それは西郷隆盛と彼を慕う士族たちが政府軍と戦った国内最後の内戦で、武士による最後の戦いだった。 戦死者は、政府軍が約6,400人、西郷軍は約6,800人にのぼる。

多くの血が流れたあの年から約130年後の2008年、この歴史に最も深い縁を持つ人物が、初めて七士の墓を訪れた。

西郷隆盛のひ孫にあたる陶芸家の西郷隆文さん(78)だ。

2008年、ある七士の子孫から「先祖が宮城に眠っている」と聞いた西郷さん。宮城で亡くなった13人の国事犯のうち、7人は引き取り手がないまま残されたことを初めて知った。


西郷隆盛のひ孫 西郷隆文さん

「西郷の子孫として、どうしても行かなければならない。そういう思いです」

七士の墓前で手を合わせると、涙が止まらなかったという。

「西南戦争で敗れて裁判にかけられ、遠い宮城まで連れて行かれた。無念だったと思います」

宮城に送られた305人が、囚人としての身に甘んじず、開墾や港湾工事などの労役を自ら願い出たという史実に、隆文さんは先人たちの気概を感じ取っている。

「まさに薩摩の武士だと感じました」

瑞鳳寺によると、七士のなかには子孫が名乗り出て、墓の土などを鹿児島に持ち帰った例もあるが、まだ残ったままの人もいるという。

東北で命を落とした七人。そして、彼らの無念を晴らすかのように、この地で人々のために力を尽くした仲間たち。

140年以上の時を超え、木立の中に立つ七つの墓は、たとえ囚人として異郷にあっても誇りを失わず、懸命に生きた人たちの矜持を今に伝えている。

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