雑草に埋もれたレール跡、旧日本軍が残した塹壕、プツンと切れた高架まで…大隅半島から39年前に消えた「志布志線」の痕跡をたどる
ちょうど真ん中に桜島を抱き、西に薩摩半島、東に大隅半島が取り囲む——。これが九州最南部、鹿児島県の姿である。
人口が集中しているのは、西側の薩摩半島だ。県都の鹿児島市は県の人口の1/3以上を占める大都会。ターミナルの鹿児島中央駅には観覧車も回っているし新幹線も乗り入れる。
一方、東側の大隅半島はというと、薩摩半島とはまったく事情が異なっている。鹿屋という人口10万に近い中心都市はあるけれど、薩摩半島と比べると人口はかなり少ない。薩摩半島と大隅半島の人口のアンバランスさ、それは江戸時代、薩摩藩の時代から課題だったというから、なかなかに悩ましい。
今は鉄道のない大隅半島だが…
だからというわけでもなかろうが、大隅半島に鉄道は通っていない。ほんのギリギリ、付け根のところにJR日南線の志布志駅があるくらいだ。

だが、かつては志布志駅を要衝としてほかに2つの鉄道路線があった。ひとつが半島を横断する大隅線、もうひとつが南北に走る志布志線である。
せっかく志布志駅までやってきて、そのまま日南線で折り返してはつまらない。だから今回は、志布志線の跡を辿って見ようと思う。

ナゾの廃線「志布志線」の痕跡をたどる 撮影=鼠入昌史
ナゾの廃線「志布志線」の痕跡をたどる
志布志線は、宮崎県都城市の西都城駅から県境を跨いで志布志駅までを結ぶ38.6kmの路線だ。
細かいことをいえば起点は西都城。だから西都城駅から辿るのが本筋なのだろうが、今回はその逆、終点の志布志駅から辿ることで勘弁していただきたい。
今回の路線図。志布志駅から西都城駅まで北に伸びていた志布志線。西に伸びているのは、国分までを結んだ大隅線である。
その志布志駅、1面1線の無人駅でとても3路線が交わるターミナルだったとは思えない。もちろんこの姿は、志布志線と大隅線が廃止されてからのものだ。併設の機関区ともども要らなくなった広い構内を整理して、小さな駅に集約された。
しかし、志布志線が現役だった時代には、駅前からまっすぐ西に延びる大通りがそのまま線路になっていた。
さて廃線跡は…山の中?
現在はSLが展示されている鉄道記念公園、かつての機関区の脇を抜けたあたりで、志布志線は右にカーブ。国道220号をオーバーパスで乗り越えて、山の中へと分け入っていたようだ。
……と、さっそく歩きはじめてみたはいいものの、さすがに40km近くを歩き通すわけにもいかない。
ちょうど志布志線とほぼ同じルートを通る路線バス(志布志線廃止の代替バス路線)があるので、それを乗り継いでいくことにしよう。
まずは最初の駅跡を目指す
現在の志布志市内には、志布志駅のほかに4つの駅があった。中安楽・安楽・伊崎田・大隅松山だ。しばらくはバスも志布志の町中を走っているが、安楽駅あたりからは丘陵地帯。丘の上には、延々と広がる茶畑が見える。
薩摩半島と同じく、大隅半島も火山灰で覆われたシラス台地だ。稲作には不向きでも茶畑には適しているとかで、鹿児島はお茶の生産量が全国で2位なのだという。
そんな鹿児島らしい風景を見ているうちに、松山駅跡というバス停に着いた。その名の通り、大隅松山駅の跡に近いバス停だ。

大隅松山駅は、旧松山町の中心部に置かれていた駅だ。町中を東西に県道110号線が通っていて、志布志線はそれをオーバーパスしていたのだろう。県道からは前後の区間の築堤らしき高まりが残っているのがわかる。

そしてバス停のすぐ北側に、ホームと線路がそのままに残った大隅松山駅跡があった。
雑草に覆われたホーム跡
ホームの上には駅名標も残っていて、駅前だろう一角にはほんの小さな商店街。駅前広場らしき場所には小さな木が生えて、その脇には電話ボックスと丸いポストがぽつねんと。
古いホームやレールも味わい深いが、駅前の雰囲気が残っているのも想像力を刺激する。列車に乗る前にポストにハガキを投函したり、列車を降りてから家に「いま駅だから」なんて電話をかけたりしたのだろうか。電話ボックスとポストが鉄道現役時代からあったかどうかはわからないけれど。
大隅松山駅からは、志布志線は県道110号線に沿うようにさらに山の中へと入ってゆく。ただし、廃線跡は県道からは少し外れた茂みの中へ。
廃線跡らしき道筋があったから少し辿ってみたけれど、とてもじゃないが先まではいけなそうだ。いくらクマのいない九州とはいっても、野生動物は怖いですからね。
せっかくなので徒歩で移動
次のバスまではまだだいぶ時間があったから、県道を歩いて隣の岩川駅に向かう。大隅松山駅から岩川駅までは4.4kmだ。
歩けばだいたい1時間の道のり。しばらくは林の中を進み、少し先で大きく景色が開けてくる。広がっているのは畑か牧場か。
実はこのあたり、戦時中には岩川海軍航空基地が置かれた軍の町だった。戦争末期、沖縄戦に出撃して主に夜間攻撃に従事した「芙蓉部隊」という部隊があったという。
あちこちに戦争の痕跡が…
大隅松山駅のすぐ近くには芙蓉部隊通信司令部の塹壕跡があったり、県道沿いの林の斜面には傾斜を利用した兵員たちの宿舎跡があったり。
大隅半島の山の中、敵からも見つかりにくく、それでいて沖縄にも近い。芙蓉部隊がこの場所に移ってきた1945年、もうとっくに志布志線は開通していた。
兵隊や武器弾薬が志布志線で運ばれた、なんてこともあったのかもしれない。
戦争の痕跡を感じながら県道を歩き、周辺が少し町らしくなってきたら北に向かって坂を下り、菱田川沿いの廃線跡に戻る。このあたりはまるっと道路になっている。ゆるやかなカーブが、実に廃線跡らしい。
だが、それと知らなければただの道。一筋南の県道63号線は岩川の町のメインストリートだ。
かつての駅まで到着したが…
そんな中を進んでゆき、大隅合同庁舎の裏手あたりが岩川駅の跡である。大隅松山駅とは違って周辺はこちらのほうが賑やかだが、それと裏腹にホームも線路も、志布志線の痕跡は何も残っていなかった。
少し先で、廃線跡の道路は菱田川を渡る。その橋は鉄道時代からのものなのか。ちょうどバスがやってきたので、再び乗り込んで次は末吉駅の跡を目指そう。
1987年3月に廃止される直前、志布志線を走っていた列車は1日にたったの10往復だけだった。廃止の理由はもちろんお客が少ないから。つまり超のつくローカル線だったわけだ。
だが、それでも中には主要駅というものがある。末吉駅などはまさに志布志線の主要駅だ。
末吉駅跡には何がある?
駅の近くにはかつての末吉町、現在の曽於市の中心市街地が広がっている。
1949年6月には、昭和天皇が志布志線に乗って末吉駅で降り立った。駅前広場の跡には、そんな歴史を刻む記念碑が残されていた。
末吉駅跡には末吉鉄道記念館が建っていて、脇にはレールや転てつ機などが展示されている。
肝心の廃線跡はこちらも道路になっていた。道ばたの屋根付き待合スペースは、もしかすると現役時代のものなのかもしれない。
末吉駅の先は、坂を下って県境を跨いで都城盆地へと入ってゆく。都城市内の廃線跡は、ほとんどが志布志線ウエルネスロードというサイクリングロードになっている。
プツンと切れた高架の先には…
サイクリングロードの終点は都城の中心市街地の一歩手前。萩原川を渡ったところで廃線跡のサイクリングロードは途切れて終わる。
その先は住宅地に変わっているが、終点の西都城駅が近づくと志布志線のための高架がいまもそのままの形で現れる。高架の上を覗くことはできないが、航空写真で見ればレールも何もないただの高架の廃墟のようだ。
そのまま高架で日豊本線と合流し、西都城駅へ。もちろん、西都城駅には志布志線のホームなどは存在しない。
志布志線は1923~1925年にかけて開業した。大隅半島方面に線路を延ばした初めての鉄道だった。
この超ローカル線が誕生したワケ
なぜ大正期、比較的早い段階で県境を跨ぐ志布志線が開通したのか。実は、都城と大隅半島、中でも港湾都市の志布志は古くから強い結び付きがあったのだという。
いまでは宮崎県と鹿児島県に分かれてしまったが、江戸時代にはどちらも薩摩藩領だった。特に都城は、中世以来の島津氏“発祥の地”。志布志は島津領、薩摩藩の外港として賑わった。
つまり、都城と志布志は江戸時代どころかこの地で島津氏が勢力を伸ばしていた中世から切っても切れない関係だったのだ。
明治に入って県が分かれても、元からの強い結び付きはそうそう切れるものではない。近代以降、畜産が盛んになった都城では、志布志港を通じて飼料を輸入していたという。
都城と志布志の結び付きは、単なる精神的なものではなく、経済的にも大きな意味を持っていたのである。
県境を結んだ幻の路線
志布志線は、そうした歴史的背景の中で開業した路線なのだ。きっと、志布志線が開通すれば大隅半島の発展にも大いに資すると期待されたに違いない。
しかし、志布志線は1987年に廃止されてしまった。結び付きが弱まったのではなく、単にクルマ社会に移行してお客がいなくなったからだ。2025年には志布志線とほぼ並行する都城志布志道路も開通している。
志布志線という消えたローカル線は、県境を越えて1000年にわたって強く結ばれてきたふたつの町と町の歴史をほんの一時代、支えた存在だったのである。
撮影=鼠入昌史





























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