今から80年前のきょう、昭和20年(1945年)4月16日の未明、第二昭和特攻隊のゼロ戦8機に出撃命令が下りました。
「本来であれば私の命日だった」
そう語ったのは特攻隊の元隊長、丸茂高男さん(甲府市)。
戦争の体験を聞いたのは平成から令和にかわろうとする2019年4月。
年齢は取材当時のままお伝えします。
元 特攻隊の隊長 丸茂高男さん(甲府市)95歳:
「どうせね、生きて帰れると思ってないんですよ。特攻隊員は。そこがひどいや」
元 特攻隊の隊長 丸茂高男さん:
「普通の人は亡くなることはあるいはあっても、一方じゃ生きる部分もある。特攻隊員っていうのは絶対生きられないですよ。死んで帰るしかない」
海軍兵学校当時の丸茂氏 (以下、戦時中の写真提供:丸茂氏)
大正13年生まれの丸茂さんは昭和16年、1941年12月1日、17歳で海軍の士官を養成する海軍兵学校に入学。
そのわずか1週間後、ラジオから流れてきたのは…
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり」
12月8日 真珠湾攻撃 太平洋戦争に突入したのです。
元 特攻隊の隊長 丸茂高男さん:
「びっくりしましたね、それこそ どうなってしまうのだろうって、軍隊ですから辞めるとか自由にできませんしね」
にわかに激化する戦況への不安を押しとどめ、丸茂さんは自身が志した海軍でパイロットを目指します。
戦争は開戦当初は日本が優勢でしたが、やがてアメリカ軍が攻勢に転じると戦局は厳しくなり日本の敗色が濃くなっていきました。
追い詰められた日本が打ち出した作戦。それは「神風特攻」。
爆弾を積んだ飛行機などで敵の艦船に体当たりするという余りにも無謀なものでした。
この特攻作戦に兵学校の教官や仲間たちも次々と飛び立ち、戦場で散っていきました。
元 特攻隊の隊長 丸茂高男さん:
「身近にご飯を食べたり、そういう人たちが続々(特攻隊へ)出てきたということで色んな状態が厳しかった。厳しい中で育ってきた」
やがて、丸茂さんにも特攻隊入隊の希望調査がまわってきました。
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