「フットワークが軽くて口が達者」 大河「豊臣兄弟!」 豊臣秀吉が織田信長に気に入られた本当の理由 | きばいやんせ!鹿児島

「フットワークが軽くて口が達者」 大河「豊臣兄弟!」 豊臣秀吉が織田信長に気に入られた本当の理由

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NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、天下人・豊臣秀吉の弟である豊臣秀長を中心に、戦国時代のど真ん中で天下統一を果たした兄弟の軌跡にスポットライトがあてられています。今回は豊臣秀吉が織田信長に気に入られるようになったワケを解説します。

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17歳の時に織田信長に仕える

豊臣秀吉は、一般的に天文23年(1554)、17歳の時に織田信長に仕えたとされます(ちなみに『太閤記』には永禄元年=1558年に信長に奉公したと記されています)。

信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記である『信長公記』に秀吉が初めて登場するのは、永禄11年(1568)9月のこと。信長がのちに室町幕府15代将軍となる足利義昭を奉じて、上洛戦をスタートさせた時のことでした。

秀吉は、佐久間信盛・丹羽長秀といった織田の重臣と共に六角氏が籠もる箕作城(滋賀県東近江市)攻めに参加し、同城を落としているのです。信長に仕えてからわずか14年で、その立場まで来たことは、秀吉のすさまじい出世ぶりを物語るものでしょう。

秀吉に元々、大きな後ろ盾があったとか、武家の出であったならば、そうしたことも十分あり得たでしょうが、彼は尾張中村の貧しい百姓の出です。そうした境涯にありながら、織田部将として活動している秀吉。それは秀吉のすごさであると共に、彼を見出した主君・信長の賢明さでもあると思います。

では、織田部将として上洛戦に参加するまでに、秀吉はどのような活動や生き方をしていたのでしょうか。信憑性ある史料からはなかなか窺い知ることはできません。『太閤記』や『武功夜話』など後世の伝記・軍記物類に頼らざるを得ないのです。

『太閤記』(儒学者・小瀬甫庵により書かれた秀吉の伝記)には、秀吉が信長に仕えるようになった頃のことが書かれています。

「気がよく利くであろう」ということで、織田家に雇用された秀吉。「筑阿弥の子ということで、小筑」と信長は秀吉を呼んでいたようです。秀吉は新参者でしたので、信長の御前にすぐに侍ることは当然できません。よって、信長の近習に近づき、そこから御用を承っていたとのこと。

一両年はそのように過ごした秀吉。犬山城(愛知県犬山市)の近辺で焼き討ち騒動があった時に信長に接近する機会を得ます。

信長は未明に出陣しようとするのですが、馬をおとなしくさせている者がおりました。「誰ぞ」と信長が問えば「木下秀吉」との答えが返ってきます。秀吉は信長の出馬に備えて、信長が乗る馬をなだめていたのです。

それとはまた別の日。鷹狩りのため、暁に出立する信長。「誰かある」と呼べば「藤吉郎、これに候」とそこにもまた秀吉の姿がありました。『太閤記』からは、先んじて信長に接近しようとする秀吉の姿が描かれています。そうこうするうちに、秀吉は信長の御用を直に承るようになったのでした。

信長の家臣に取り入る

さて、尾張国の土豪・前野家の家伝史料『武功夜話』にも若き頃の秀吉の動向が記されています(同書を偽書とする研究者もいる一方で、一次史料の空白を補う文献として貴重とする歴史家もいます)。

同書では、秀吉は尾張国中村の村長の倅とあります。若い頃に志を立て、実家を出て、駿河・遠江・三河国を放浪。

弘治2年(1556)、秀吉がたどり着いたのが、織田家に仕える生駒氏の屋敷でした。秀吉は「小才」をもって、生駒家の人々に取り入り、同家に滞留することになったといいます。

諸国の事情に通じた秀吉を、同書は「才覚」ありとしています。生駒屋敷において、秀吉がたまたま出会ったのが、尾張国海東郡の国衆・蜂須賀小六でした。

小六は秀吉を見て「面構えが良い」ということで、召し抱えたということです。秀吉は「小兵」(体格が小さい)でしたが「武辺」(武術)を好んだということ。どこにでも軽々と出入りしたということです(今風に言うと、フットワークが軽いということでしょう)。

口達者でもあり、人がなかなか口にできないような「色話」なども御前で平気で口にしたと記されています。『武功夜話』に記された秀吉は、ドラマ等で度々描かれてきた秀吉像と似通っているように思います。

同書に「鬼子」(異様な容貌を指したものか。それとも荒々しく力強いという意味か)とも記された秀吉に運命の出会いが訪れます。

生駒屋敷に織田信長がやってきたのです。御前に召し寄せられた秀吉は、信長と対話することになります。

しかし、秀吉はそこでも普段と変わらず。面白話や馬鹿話をしたようです。それを信長は機嫌よく聞いていたとのこと。秀吉はその際、信長に「武者奉公」を直訴したのでした。側にいた生駒家長は「お前のような小兵、腕の力もなく、太刀振りも覚束ないであろう。心得違いも甚だしい」と秀吉に諭したとされます。

だが、秀吉はそれでも諦めず、生駒久菴(吉乃。信長の側室)に「御大将の馬の口取りでもよいので、御用を」と懇願。久菴の筋から信長に働きかけて、ついに秀吉は信長に仕えることになったと同書は記すのでした。

生駒氏の娘で信長の側室・吉乃が、秀吉の織田家への奉公を仲立ちしたという記述が『武功夜話』にはあるのです。

資料によって異なる信長と秀吉の“接点”

一方で江戸時代初期の旗本によりまとめられた秀吉の伝記『太閤素生記』には、信長に小者として既に仕えていた友人(一若)を頼み、秀吉は織田家に奉公したと書かれています。

また『太閤記』には叔父と相談した上で、奉公したいと信長に直訴したと記されています。

秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛重治の子・重門が記した『豊鑑』(秀吉の一代記)にも、秀吉は信長に直訴して仕えたとあります。

「宮仕えの望みがあります」と川からの帰り道の信長に直接訴えたのです。信長は仕官を許し、秀吉は日々、懸命に仕えるのです。「賢さ」が人より優っていたので、秀吉は出世したと『豊鑑』は記しますが、それだけではなく、秀吉の熱心さを信長は見て、重用したのでしょう。

鷹狩りを好み毎日のように外出する信長に、秀吉は1日も怠らず、藁沓(わらぐつ)を用意したとのこと。

秀吉のバイタリティを考えると…

秀吉は信長にどのように仕官したのか。どれが正しいか判断がつきませんが、筆者としては秀吉のバイタリティを考えると直訴説に魅力を感じています。

(主要参考文献一覧)
・渡辺世祐『豊太閤の私的生活』(創元社、1939年)
・桑田忠親『豊臣秀吉研究』(角川書店、1975年)
・桑田忠親『桑田忠親著作集』第5巻(秋田書店、1979年)
・桑田忠親編『豊臣秀吉のすべて』(新人物往来社、1981年)
・新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社、1996年)
・藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社、2007年)
・渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社、2013年)
・柴裕之編著『豊臣秀長』(戎光祥出版、2024年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)

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