「戦争を甘く見る空気」が日本を覆っている…1937年と2026年の不気味な共通点 | きばいやんせ!鹿児島

「戦争を甘く見る空気」が日本を覆っている…1937年と2026年の不気味な共通点

物価高に苦しむ国民をよそに進む軍備増強、威勢のいい強硬論、異論を封じる空気──。山崎雅弘『戦争を甘く見る空気 1930年代と似た道を進む現代日本』から、現代日本の危うさを読み解く

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戦争を甘く見る空気 1930年代と似た道を進む現代日本』(山崎雅弘・著、朝日新書)の冒頭で著者は、先の戦争の実質的なスタートラインとなった盧溝橋事件(1937年7月)が起きる前の日本社会の状況と、そこに流れていた「空気」について言及している。

 一九三七年前半の大日本帝国において、一般国民にとっての最大の関心事は、止まらない物価の高騰でした。食料品や調味料、毛糸や洋服、燃料の石炭など、生活に必要なあらゆる物品の値段が上がり、当時の日本国民は、給料が上がらないのに物価が際限なく上昇するという生活面での大きな困難に直面していました。

 けれども、当時の日本政府は、こうした国民の苦境など全然目に入らないかのように、陸軍と海軍の軍事費に著しく偏重した予算案を成立させ、国民が払った税金を、国民の暮らしを改善することではなく、軍備の増強と戦争の準備に注いでいました。(「はじめに」より)

そんな流れのなかで、盧溝橋事件が発生する。当初は偶発的な銃撃戦にすぎなかったものの日中戦争へとエスカレートし、日本は中国との泥沼のような戦争にのめりこんでいった。

物価高のなか、日本はなぜ戦争へ向かったのか

この時点で、疑問を抱かざるを得ないことがある。

国民の多くが物価高で苦しんでいるにもかかわらず、日本政府と日本軍はなぜ、さらなる物価高騰と物不足を招くことになる戦争をわざわざ始めたのかという点だ。

そして日本国民の多くも、数年後にどんなことが起きるかを想像できてはいなかった。気になっていたのは目先の物価高であり、「弱い中国軍のことは強い日本軍が打ち負かしてくれるだろう」と、事態を甘く見ていたのだった。

著者はこれを、「当時の日本人にとって、戦争とは“兵隊さんが大陸で行う『イベント』”だった」と表現しているが、つまりはそれこそが「戦争を甘く見る空気」の本質だ。

多くの場合、戦争は最初から「戦争という形」では訪れない。日常の延長上で、それは“戦争へと成長するなにか”であるとは誰も気づかない形で近づいてくる。そして(メディアを利用するなどしながら)人々の心を高揚させ、少しずつ「戦争」へと膨らんでいく。

 戦争を甘く見てはいけない。軍備増強や武力による威嚇で平和がもたらされるという、政府や軍部の一見もっともらしい説明を、安易に鵜呑みにしてはいけない。

 そして、政府が一度始めた政策の間違いに気づいて方針を転換するという「勇気ある決断」を下せない時には、国民の側から「もう止めろ」と、集団で声をあげて止めさせないといけない。そうしなければ、間違った政策は国が破滅の淵に到達するまで続くから。

 心の中では「おかしい、理不尽ではないか」と思っていても、周りの人が何も言わないなら、自分も黙ってそれに合わせて黙る、という「付和雷同」の気質も、当時の日本国民が組織的に「戦争はもう止めろ」と言わなかった理由の一つと考えられます。(「はじめに」より)

1937年と2026年に重なる「不穏な空気」

こうした記述を読むと、さまざまな意味で現在の日本との類似点に気づく。

政治家の現実認識力は低く、その思考形態は明らかに戦争や武力行使を軽んじている。そんななか、SNSやネット上では、威勢のいい強硬論に煽られる国民の感情が暴走している。

私は最近、故・田中角栄の「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らない世代が政治の中枢になった時はとても危ない」という有名な言葉を思い出すことが多いのだが、すべてが細い線でつながっているように思えてならない。

もしかしたら、考えすぎだという意見もあるかもしれない。だが、高市総理の言動を引き合いに出すまでもなく、不安要素はいくらでもある。

だから、著者のこの意見にも強く納得できる。

 一九三七年の日中戦争勃発から八九年が経過した二〇二六年の日本。

 この国では再び、戦争を甘く見る不穏な空気が広がっているようにも見えます。

 当時と同じような物の見方と考え方、同じような言葉遣い、同じような政策上の優先順位が、政府と国民、そして両者を繋ぐメディアの中に出現しています。

 そして、当時使われていたのと同じような語句や論法を用いて、政府や国策への異論を封じる恫喝の言説が、ネットの爆発的な影響力を通じて社会に広がっているようです。

 これはつまり、日本国民の意識が、何らかの理由で、一九三〇年代の日本と同じようなものへと回帰しつつあることを意味します。(242〜243ページより)

特に気になるのは、「批判」をネガティブに捉えるムードの高まりだ。「批判」とは本来、物事の問題点を指摘し、検討する行為である。ところがネット上では、対象への「攻撃」や「否定」であるかのように受け取られる場面も少なくない。

しかし、本当の意味での「批判的思考」を持っておくことは、こんな時代だからこそ重要だ。

物事を鵜呑みにすることなく、疑って検証してみる――。それは、人間が本来持っている知性であり、危険を回避するための力でもある。

この点に関して興味深いのは、著者が「胡散臭い」と感じることの重要性を説いていることである。

 例えば、人の話を聞いて「胡散臭い」と感じるのは、いわゆる「勘」とは違います。

 語られる言葉の中に、全体として整合しない部分を感知して違和感を覚えたり、説明の部分と結論の部分が自然な形でお互いに接続していないことに気づいたり、その主題であれば当然触れるであろう大事な点に触れていないと感じた時、それを明確に言語化できなくても、頭の中でアラームの音が鳴る。これが、「胡散臭い」という反応です。

 総理大臣や政府の説明を聞いて「胡散臭い」と感じたら、その感覚を大事にして、拒絶反応を示してもいいんです。そうしないと、一見もっともらしい綺麗ごとの大義名分に何度でもだまされて、戦乱の坩堝の中へと突き落とされることになります。(244〜245ページより)

つまり、その作業を怠れば、1937年と同じように「戦争を甘く見る空気」に染まる可能性があるということだ。

決して大げさな話ではないだろう。“なんとなく流れに任せる”のではなく、自分自身の批判的思考と「胡散臭さ」への嗅覚を最大限に働かせることが重要なのではないだろうか。

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 『戦争を甘く見る空気 1930年代と似た道を進む現代日本

  山崎雅弘・著
  朝日新書

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[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。他に、ライフハッカー[日本版]、東洋経済オンライン、サライ.jpなどで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)、『この世界の中心は、中央線なのかもしれない。』(辰巳出版)など著作多数。2020年6月、日本一ネットにより「書評執筆本数日本一」に認定された。

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