日銀総裁が迎えた試練
金融緩和と財政拡張というアベノミクスの継承を訴える高市早苗政権の誕生で、日銀は植田和男総裁の下で進めてきた金融政策の正常化路線の見直しを迫られている。
「デフレでなくなったと安心するのは早い」「金融政策の方向性は政府が決める」などとする高市氏の相次ぐ発言は、金融引き締めを牽制したものだ。植田日銀が描いていた、10月末の金融政策決定会合で追加利上げに踏み切るシナリオは一気に吹き飛び、今後も政治の顔色をうかがう苦しい金融政策運営を強いられるのは必至だ。
2023年4月に学者出身で初の総裁に就いた植田氏は、この10月で任期5年の折り返し点を過ぎた。植田氏は、みずからの最大のマンデートを「異次元緩和の手仕舞い」と位置付けてきた。
安倍晋三政権に任命された黒田東彦前総裁の下、10年にわたって展開された異次元緩和はデフレ脱却を果たしきれなかった挙句、市場機能や財政規律をゆがめ、円の価値を貶める弊害を生んだ。
世界的なインフレで物価上昇率が日銀の目標の2%を上回ったことも追い風に、植田日銀はこの2年半、マイナス金利の解除と政策金利の引き上げ、国債買い入れの減額と、矢継ぎ早に金融政策の正常化路線を進めてきた。岸田文雄、石破茂両政権も基本的にこの日銀の動きを後押しし、植田総裁が政治との関係に神経をすり減らす場面はほとんどなかった。
「我々の姿勢は一貫している。誰が首相になっても十分な意思疎通を図り、2%の物価目標を安定的に達成するために適正な金融政策を行う」――。
石破首相退陣に伴う自民党総裁選の投票を翌日に控えた10月3日、出張先の大阪市内で記者会見した植田総裁はこう述べ、追加利上げに意欲を示していた。「金融政策は中央銀行の専管事項」と明言する小泉進次郎氏が総裁選で勝利すると信じ切り、高市氏が首相になることなど露ほども考えていなかったからだろう。
「総裁選の最中に決めてしまえば…」
日銀は今年1月に政策金利を年0.5%に引き上げて以降、「トランプ関税の影響を見極めたい」として金融政策を維持してきた。一方で、追加利上げに向けた環境整備は用意周到に行ってきた。
直近9月19日の金融政策決定会合で、異次元緩和のもとで大量に買い入れた、上場投資信託(ETF)・不動産投資信託(REIT)の処分方針を決定したのもその一環。異次元緩和からの脱却にあたり「最後まで残っていた宿題」(企画局幹部)にケリをつけた上で、本丸の「金利の正常化」に臨む戦略だった。
会合前に日米関税交渉が最終決着したこともあり、日銀内にはETF処分と追加利上げの同時決定を唱える声もあったが、植田総裁ら執行部は「市場にサプライズを与え、総裁選期間中に株価急落を招いたりすれば、政治的ハレーションが大きい」と思案。欲張らず10月利上げを目指すことを選択したようだ。
ちなみに、ETFの処分方針決定がこのタイミングとなったのは「『自民党総裁選の最中に決めてしまえば、政権が代わっても横やりを入れられずに済む』との日銀なりの悪知恵が働いたため」(財務省幹部)という。
時価ベースで30兆円を超える巨額の含み益を持つETFの処分を巡っては、与野党の間で、政府に簿価で移管させた上、売却益を子育て支援や減税などの財源に“流用”する案などが盛んに飛び交っていた。植田日銀は総裁選という「政治空白」を突いて、政府や与野党の介入をまんまと防いだ格好だ。
早期利上げの「地ならし」も進めていた
一方で、10月末に開く次回会合に向けては、市場に追加利上げを織り込ませる地ならしをちゃっかりと進めていた。追加利上げを見送った9月会合で、政策委員会メンバー9人のうち、田村直樹審議委員(元三井住友銀行専務執行役員)と高田創審議委員(元岡三証券グローバル・リサーチ・センター理事長)の2人が0.25%追加利上げを提案し、現状維持に反対したのがその証左だ。
田村氏は「物価上振れリスクが膨らんでいる」と警鐘を鳴らし、高田氏は「『物価安定の目標』は概ね達成された」とまで踏み込んだ。市場では「追加利上げ決定に向けた露払い」(大手証券アナリスト)と受け止められ、10月会合での利上げを見込む確率が一時7割近くにアップした。
9月29日には、積極緩和を主張するリフレ派の一角とみられていた野口旭審議委員が、札幌市の講演で「政策金利調整の必要性がこれまで以上に高まりつつある」と発言。
植田総裁も10月3日の大阪市内で行った講演や記者会見で、9月の全国企業短期経済観測調査(日銀短観)で好調な景況感が維持されたことなどを挙げ「実質金利が極めて低い水準にあることを踏まえ、引き続き政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していく」と明言するなど、10月追加利上げムードを盛り上げた。
植田日銀が早期の追加利上げにこだわるのは、米連邦準備理事会(FRB)の利下げが本格的に加速する前に、日本の政策金利について、景気を熱しも冷やしもしない中立水準の下限(年1.0%程度と想定)に近づけておきたい思惑があるからだ。
米国では今後、トランプ関税のコストを販売価格に転嫁する動きが広がり、個人消費を圧迫する恐れがある。FRBは景気悪化の懸念が高まれば、現在4.00〜4.25%という高水準の政策金利を急ピッチで3%台まで引き下げる可能性がある。
1970年代以降、日銀の5回の利上げ局面はいずれもFRBを後追いする形で行われたが、米景気悪化を意識したFRBが利下げに転じると、日銀の金融引き締めも終わるのがお決まりのパターンだった。米国の利下げと日本の利上げが重なれば、急激な円高を招き、日本経済に打撃を及ぼす恐れがあるからだ。
「高市首相誕生」で吹き飛んだ思惑
今回は初めから日米の金融政策の方向性は真逆で、円高リスクを意識する日銀は、決定を先延ばしすればするほど利上げが難しくなる状況に直面している。
足元で1ドル=150円台の円安が食料品やエネルギーなどの輸入物価高を助長していることを考えれば、為替相場が多少円高に振れても問題はないように思える。
だが、今の円安は、大手自動車メーカーなど日本の輸出企業の収益を円換算で膨らませ「トランプ関税による減収分を補うバッファー」(日銀幹部)というプラス面もある。日銀が追加利上げのタイミングを誤り、為替相場の潮目が円高方向に急激に変われば、企業業績の悪化懸念が広がり、金融政策の正常化を進める上で大前提である賃上げの流れにも水を差しかねないだけに、神経質にならざるを得ないのだ。
「米国の利下げとの間合いを見極めた上で、為替に大きな影響を与えないよう日本の金利をどう引き上げていくか」。植田氏ら執行部が思案を巡らせた結果、固まったのが、FRBが金融緩和を加速させる前の10月に追加利上げに踏み切るシナリオだった。
10月に0.25%の追加利上げをこなしておけば、年内の12月か年明け1月の会合での再度の利上げで、中立金利下限の1%に手が届く。「あとは小泉進次郎新首相に説明するだけ」。そう高をくくっていた植田日銀だが、まさかの高市首相誕生でそんな思惑は一瞬にして吹き飛んだ。
市場の見方も急変し、10月追加利上げ観測は1割に急落。「年内も厳しいだろう」(外資系アナリスト)と危ぶまれる有り様だ。
「サナエノミクス」への貢献を求められ…
実際、高市首相は、物価上昇率が2%を上回る現状について、輸入品価格などの高騰による「コストプッシュ型インフレ」と指摘し、「デフレでなくなったと安心するのは早い」と強調。
「賃金上昇が主導して需要が増えて、緩やかにモノの値段も上がっていく、企業も儲かる形のインフレがベストだ」との持論を述べた上で、「今、日本経済は割とぎりぎりのところにある」として、日銀の早期利上げ路線をしきりと牽制している。
さらに、金融政策に政府の経済政策との整合性を求める日銀法第4条まで引き合いに出し「財政政策、金融政策も責任を持たなきゃならないのは政府。日銀は金融政策についてベストな手段を考えてもらう場所だ」と語るなど、利上げの是非の最終判断は政府が行う考えを示唆している。
前回2024年9月の自民党総裁選時に「いま金利を上げるのはアホや」と言い放ったことに比べれば、言葉遣いこそモデレートになったが、アベノミクスの継承をうたう経済政策「サナエノミクス」による高圧経済の実現に、日銀の貢献を求める姿勢はいささかも変わっていない。周辺筋は「政府から独立して金融政策が決められるなんてあり得ないというのが高市氏の信念だ」と解説する。
進むも地獄、退くも地獄
それどころか中小企業の賃上げ支援のための交付金拡充、ガソリン・軽油取引税の旧暫定税率廃止、所得税の非課税枠である「年収の壁」の引き上げ、防衛費の更なる拡充などの積極財政を推進するため、日銀を道具に使いたい思惑も透けて見える。
官邸筋によると「日銀が国債買い入れの減額を停止し、財政の資金繰りを下支えする役割を果たして欲しいのが本音」というから厄介だ。高市政権の発足に伴い、「アベノミクスの失敗」でオワコン化していたはずの元内閣官房参与の本田悦郎氏らリフレ派も復活を遂げつつあり、日銀に黒田総裁時代への先祖返りを求める圧力は今後、ますます高まりそうだ。
「日銀とコミュニケーションを密にとっていく」とする高市首相は、植田総裁との早期の会談を望んでいるという。政治と対峙して説き伏せるような力や覚悟は乏しく、「御殿女中」とも揶揄されてきた日銀は戦々恐々の体だろう。
一方で、弱腰姿勢に終始して追加利上げのタイミングを逸すれば、米景気の悪化でFRBの利下げ路線が本格化してしまい、金融政策の正常化路線そのものが頓挫する恐れもある。蛇に睨まれた植田総裁は「進むも地獄 退くも地獄」の心境か。


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