![]()
昭和20年5月13日、台湾・赤土崎で。大西瀧治郎中将(右)と門司親徳副官
太平洋戦争で軍人として最前線で戦ったのは、明治後期から大正、昭和初期までに生まれた人たちだった。戦後81年。当事者のほとんどが鬼籍に入り、「忘れてはならない」の掛け声とはうらはらに、確実に戦争の記憶は遠ざかってゆく。そして終戦後、当事者たちがどのように生きたかということは戦争中の出来事以上に知られていない。だが、戦後、焼け跡からの復興を担ったのもこの世代だ。ここでは、私が30年以上にわたり、直接インタビューした元海軍軍人の「戦後」をシリーズで振り返る。
今回は、主計科士官としてに最前線部隊を渡り歩き、「特攻生みの親」とも呼ばれた大西瀧治郎中将の副官を務め、戦後は丸三証券社長、会長などを歴任する傍ら、特攻戦没者の慰霊に力を注いだ門司親徳氏を紹介する。
【前編を読む】<「あと二千万人の特攻隊を出せば必ず勝てる」と徹底抗戦を叫んだ大西瀧治郎中将が副官に見せた「本当の顔」>
「美談のある戦争はいけない」という歴史観
海軍航空の草分けでもあった大西は、そもそも日米開戦に反対、ないしは慎重な立場だった。
山本五十六連合艦隊司令長官から、真珠湾攻撃についての意見を求められたとき、大西は、機密保持が難しいこと、港の水深が浅くて魚雷が使えないことの2点を挙げて反対した。その2点がクリアされ、作戦が成功したのちも、真珠湾で戦艦を壊滅させたばかりに、アメリカ国民の意志を結集してしまったのだという趣旨のことを友人で実業家の徳田富二に語っている。
大西はその後、航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任し、飛行機が戦争の主力であることを力説し続けた。その強い意志と言葉は、航空畑の海軍軍人の支持を得たが、思考の硬直化した海軍首脳を動かすまでには至らなかった。
草柳大蔵著『特攻の思想』によると、軍需省にいた頃、大西は、東京・有楽町の朝日講堂で行った「血闘の前線に応えん」と題した講演で、「美談のある戦争はいけない」という歴史観を披露している。
「非常に勇ましい挿話がたくさんあるようなのはけっして戦いがうまくいっていないことを証明しているようなものなのである。たとえば南北朝時代、足利、北条が楠木正成に対して、事実は勝っていた場合の如きがそれである。あの場合、足利や北条のほうにはめざましい武勇伝なり、挿話なりというものはなくて、かえって楠木方に後世に伝わる数多い悲壮な武勇伝がある。
だから、勇ましい新聞種がたくさんできるということは、戦局からいってけっして喜ぶべきことではない。この大東亜戦争(太平洋戦争)でも、はじめ戦いが非常にうまくいっていたときには、個人個人を採り上げて武勇伝にするようなことは現在に比べるとずっと数は少なかった。いまはそれだけ戦いが順調でない証拠だともいえるのである。状況かくのごとくなった原因は、航空兵力が残念ながら量においてはなはだしい劣勢にあり、制空権が多くの場合、敵の手にあるからである」
なぜ自ら「特攻」を命じたのか
ではなぜ大西は自ら「統率の外道」とも評した特攻を命じたのか。これについて私は2011年、門司親徳と、大西に直接特攻を命じられた歴戦の零戦搭乗員、角田和男・元中尉の証言を軸に検証、『特攻の真意』(光人社NF文庫)という本を書いた。そのなかで導いた結論は、
「特攻は、敵に恐怖を与え続けて日本本土上陸を思いとどまらせると同時に、天皇に終戦の聖断を仰ぐための最終手段だった」
というものである。終戦がもし、陸海軍や政治による多数決で決まったならば、国内の「抗戦派」と「和平派」のあいだで内戦も起こりかねない状況だった。「天皇の聖断」であったからこそ、日本は整然と矛をおさめることができたのだ。大西の「徹底抗戦論」も、
「最後まで外に向かって戦う意志を示し続けることで敵国を和平交渉のテーブルに引き出し、かつ国内の抗戦派を抑えるための『命がけの芝居』であった」
ことを、多くの証言や資料をもとに明らかにした。
昭和20年2月下旬、台湾の台南神社で。左から門司主計大尉、児玉誉士夫、大西中将
門司は、昭和20年5月13日、第一航空艦隊司令長官だった大西が軍令部次長に発令され帰国するとき、台湾から東京まで同行した。19日、東京での用が終わった門司が台湾に帰ろうと挨拶すると、大西は門司が乗る自動車の側まで砂利道を一緒に歩いてきて、
「握手をすると、みんな先に死ぬんでなあ」
ポツリと言って、車が動き出すまで、立ったまま見送ってくれたという。これまで多くの特攻隊員と握手をして送り出してきた大西中将の心情の一端が見てとれよう。
「これが、長官との最後の別れになりました。なぜあのとき、『かまいません』と言って長官と握手しなかったか、悔やまれてならないんです」
門司は、このときの大西の心のぬくもりを、生涯忘れることはなかった。
妻との同居すら拒否した理由
大西中将に別れを告げた門司が台湾に帰ったのは5月24日。その翌日の5月25日、東京がB-29による大空襲を受け、霞が関の官庁街から山の手にかけてが焼け野原と化した。米軍の焼夷弾は宮城(皇居)にも落ち、宮殿も大宮御所も焼けた。
上落合の大西邸も焼失した。焼け出された妻・淑惠は防空壕で暮らし、その後、知人の家に身を寄せるが、大西は最後まで淑惠が官舎に同居することを許さなかった。大西が航空本部にいた頃から物資調達などの手足となって働いていた児玉誉士夫が、「奥さんと同居して家庭料理でも」と勧めると、大西は、
「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らずに死んでいったんだよ。614人もだ。俺と握手していったのが614人いるんだ」
と言い、目にいっぱいの涙をためたという。そして淑惠に、
「家庭料理は食えないよ。若い人に気の毒だものな」
と、念を押すように言ったという。
昭和20年5月13日、大西瀧治郎中将の軍令部次長転出にさいして台湾・赤土崎で撮影された第一航空艦隊司令部職員。前列中央が大西中将、後列右から2人目が門司副官
大西は玉音放送後の8月16日未明、渋谷南平台の次長官舎で割腹。遺された遺書には、特攻隊を指揮し、徹底抗戦を強く主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙をいましめ、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれてあった。
大西の自刃は、8月17日午後4時、海軍省から遺書とともに発表され、8月18日の新聞に掲載された。門司が、台湾の新聞でこの遺書を読んだのも、この日のことである。
「俺は死ぬ係じゃないから」
軍令部作戦部長として特攻を採択した中沢佑少将(のち中将)、第二部長として特攻兵器の開発を強力に推し進めた黒島亀人少将――海軍の「特攻」の責任はこの二人にほぼ帰結するのだが――は、大西中将のように自決することもなく、天寿を全うした。
中沢少将は昭和20年2月、台湾海軍航空隊司令となり特攻隊を直接指揮する立場になり、台湾警備府参謀長として終戦を迎えるが、大西中将の自決が報じられた際、中沢少将も責任を感じて自決するのではとそれとなく様子をうかがう幕僚たちを前に、
「俺は死ぬ係じゃないから」
と言い放ったのを、門司はじかに聞いている。
黒島少将は戦後、宇垣纒中将の日記「戦藻録」の一部を勝手に処分したり、海軍の機密文書を無断で焼却したり、なんらかの証拠隠滅ととられる行動をとった。
昭和20年5月13日、台湾・赤土崎で。大西瀧治郎中将(右)と門司親徳副官
第一線の指揮官のなかにも、フィリピンの第一線で特攻を推進し、多くの若者を死地に追いやった二〇一空飛行長中島正中佐(1910-1996。戦後、航空自衛隊で空将補)のように、亡くなる前年の平成7(1995)年、私の電話インタビューに、
「もう全部忘れた。零戦のことも特攻のことも」
と答えながら、同年、イギリスの国営放送BBCのドキュメンタリー番組「KAMIKAZE」に出演したさいには、
「誰も志願してくれなかったらどうしようと思っていたら志願してくれてよかった」
「私は世話役なもんだから(特攻隊員に)なれないわけですよ。あと空戦の腕のいいのも、特攻機を守ってもらわなきゃならんから出さなかった」
などと、日本で放送されない前提の番組だったせいか、悪びれることなく笑顔で語った人がいる。中島は最初から自らを「督戦側」すなわち「安全地帯」に身を置いていた。
「安全地帯にいる人の言うことは聞くな」
門司は言う。
「自分は行く立場にない、死ぬ係じゃない。……それが中央でも前線でも、特攻で部下に死を命じた側の多くの本音だったのでしょう。自分が死ぬ立場なら、命令のあり方も違ったかもしれない。――『安全地帯にいる人の言うことは聞くな、が大東亜戦争の大教訓』なんです」
太平洋戦争で、230万名にものぼる将兵や軍属、準軍属が戦死、あるいは戦病死し、30万の一般邦人が外地で命を落としたとされているが、その多くはいまなお遺骨すら還っていない。遺族への扶助料も、敗戦とともに空証文と化し、昭和27(1952)年の第十三通常国会で、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が可決、成立するまでは1円の援助もなかった。しかも、50万人もの死者を出した民間人の空襲被害者に対しては米一粒、柱一本の補償もしてこなかったのが先の大戦における「祖国」である。
海の向こうのアメリカでは、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』などで知られる映画監督・俳優のクリント・イーストウッドが、
「戦争を美しく語る者を信用するな。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから」
と言っている。これは歴史を踏まえた上での至言だと思う。同様に、「祖国」を持ち出して若者に「戦う覚悟」を問う評論家や政党、為政者にも惑わされてはならない。彼ら、彼女らは決まって戦場に行かない者たちなのだから。
「死にぞこないだ」という気分が抜けなかった
はじめに述べたように、門司は戦後、開戦前に就職していた日本興業銀行に復職。取締役総務部長を務めたのち、昭和45(1970)年、丸三証券社長となり、昭和56(1981)年、同社相談役に退いた。昭和62(1987)年には日魯漁業株式会社の監査役も兼ねるが、相談役も監査役もいわば閑職である。
門司は自ら参加した旧戦場に可能な限り足を運び、戦没者の慰霊行脚に力を注いだ。自らの軍人恩給を全額、特攻隊の慰霊碑を管理するフィリピンの個人や団体に寄付したりもしている。軍人恩給は12年の軍歴がないと支給されないが、戦地勤務の間は3倍に加算される。戦地の長かった門司は、軍歴は5年足らずだが、受給資格を満たしていたのだ。
「興銀に戻っても、自分は死にぞこないだという気分がなかなか抜けませんでした。仕事も多少はしましたが、興銀女子バスケットボール部の部長になって、全日本で3回優勝、実業団でも7連覇するなど、そちらのほうが一生懸命でした。私の人生は、銀行と証券の仕事を別にすれば、海軍とバスケット、そして引退後の慰霊の旅に集約されると思います」
門司は最晩年まで、自らの関係する慰霊祭や戦友会に足を運び、戦没者の遺族にも心を寄せ続けた。平成20(2000)年8月16日歿、享年92。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎中将と同じ「20年8月16日」の最期だった。
門司親徳。2003年12月、神奈川県大磯の自宅で(撮影/神立尚紀)
東京・調布市の「セレモニアル調布」で行われた門司の告別式には、かつての興銀女子バスケット部の選手たちや元特攻隊員たちの姿も見られた。出棺のとき、棺は元興銀女子バスケット部員が担ぎ、元特攻隊員たちが海軍式の挙手の敬礼で門司の棺を見送った。


コメント