明日、死ぬ」と決まった18歳の特攻隊員が書いた「ぶっきらぼうな遺書」の全文 | きばいやんせ!鹿児島

明日、死ぬ」と決まった18歳の特攻隊員が書いた「ぶっきらぼうな遺書」の全文

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太平洋戦争で軍人として最前線で戦ったのは、明治後期から大正、昭和初期までに生まれた人たちだった。戦後81年。当事者のほとんどが鬼籍に入り、「忘れてはならない」の掛け声とはうらはらに、確実に戦争の記憶は遠ざかってゆく。そして終戦後、当事者たちがどのように生きたかということは戦争中の出来事以上に知られていない。だが、戦後、焼け跡からの復興を担ったのもこの世代だ。ここでは、私が30年以上にわたり、直接インタビューした元海軍戦闘機搭乗員の「戦後」をシリーズで振り返る。海軍の戦闘機搭乗員は、戦後50年の平成7(1995)年に1100名が存命だったのが、それから30年が経った令和7(2025)年10月現在、数名の存命が確認できるに過ぎない。

最前線に投入された戦闘機搭乗員の8割が戦没した苛烈な戦争を生き延びた彼らは、どのような戦後を過ごしたのか。今回は、5度の特攻出撃から生還した杉田(旧姓小貫)貞雄一飛曹を紹介する。

5回の特攻から奇跡の生還

「昭和20年、8月15日、玉音放送は、出撃待機中の台湾・宜蘭(ぎらん)基地で聴きました。雑音が多くてよくは聞き取れませんでしたが、戦争が終わったことは理解できた。そのときみんなの表情がね、頬が緩んでピクピクしてるんですよ。それを表に出さないように我慢してる姿がね。戦争に負けたのは理屈では口惜しいんだけど、死なずにすんだという喜びがどんどん湧いてくる。みんな悔しいフリはしていますよ。デマ宣伝にだまされるな!そうだそうだ!戦闘続行!なんて口々に言いながら、頬が緩んでる。身体がよじれるような、踊り上がりたいような喜びが体の内から湧いてくる。戦争に負けた悔しさとこれとは、とりあえず別ですよ。人間の生存本能じゃないでしょうかね」

と、第二〇五海軍航空隊神風特攻大義隊員だった杉田貞雄(旧姓・小貫)は私のインタビューに語った。2003年のこと。杉田は、爆装特攻機として、部隊で最多となる5度の特攻出撃をしながら敵艦と遭遇することなく、奇跡的に生還した零戦搭乗員だ。

杉田貞雄の戦中、戦後(右写真撮影/神立尚紀)イメージギャラリーで見る

杉田が特攻隊員になったのは、周囲の同調圧力に負けたからだった。終戦前年の昭和19(1944)年10月末のことである。

「諸君は空の神兵(しんぺい)である。ただいまより特別攻撃隊員を募集する。我と思わん者は一歩前へ出よ」

第二航空艦隊司令長官・福留繁中将の訓示に、一瞬、その場が凍りついた。フィリピン、クラーク・フィールドのアンヘレス北飛行場。ぎらぎらと太陽が照りつける草原の滑走路に整列した搭乗員たちは皆、顔は前を向いたまま、目だけをきょろきょろさせて、周囲の様子をうかがっていた。そして数秒。沈黙に耐えかねた誰かが前に出ると、それにつられて全員が、ぞろぞろと重い一歩を踏み出した。爆弾を搭載した飛行機による体当り攻撃、すなわち特攻が本格化しつつあった。

18歳の杉田も、雰囲気に引きずられて一歩前に出た。しまったと思ったが、もう後戻りはできなかった。

「ありがとう、ありがとう。だがこれでは志願者が多すぎて選びようがない。いずれ選考の上連絡するから、ひとまず宿舎に帰って休むように」

と言って、福留中将は、ハンカチでそっと目頭を押さえる仕草をした。

特乙での訓練

杉田は大正15(1926)年3月23日、宮城県に、鉄道員の次男として生まれた。軍艦に憧れて海軍一般志願兵を受験したが、成績がよかったので、試験官の勧めで飛行兵志望に切り換える。そして昭和18(1943)年6月、乙種飛行予科練習生(特)、通称「特乙(とくおつ)」の二期生として、山口県の岩国海軍航空隊に入隊した。

最初に配属された実戦部隊、第三六一海軍航空隊「晃」部隊の頃。左端が杉田。昭和19年5月、鹿児島基地にて。バックは桜島イメージギャラリーで見る

「特乙」とは、乙種予科練(受験資格は高等小学校卒業以上)の合格者のなかから生年月日の早い者を選抜、速成教育を施すために新設されたコースで、杉田も「殴られて体で覚える」すさまじい詰め込み教育に耐え、海軍に入ってわずか9ヵ月後の昭和19(1944)年3月には零戦搭乗員として実戦部隊に配属される。同年10月には、米軍の大部隊がレイテ島に上陸したのを受け、零戦で編成された第二二一海軍航空隊(二二一空)の一員として、日米決戦を目前に控えたフィリピンに送り込まれていた。

「二二一空は制空部隊なので、連日の邀撃(ようげき)戦に参加しましたが、車で言えばまだ初心者マークをつけているようなもので、一番機から離れないよう飛ぶのが精いっぱいでした。私の小隊長の石原泉上飛曹が、『初心者が後ろで引き金(機銃の発射レバー)を握っていたら俺が危ない。お前は撃たなくていいから、とにかく離れずについて来い』と注意してくれましたが、編隊からはぐれると必ずやられますよ。それで機銃も撃たず、尾翼に被弾して還ってきたのが私の初陣でした。

何度かグラマンF6Fと空戦をやって、最初は体が震えて困りましたが、これが武者震いか、とやせ我慢しているうちに、だんだん戦場に慣れてきます。そして、仲間がちらほらやられるようになると、クソ度胸がついてきて、敵愾心が湧いてくる。俺は負けない、と、いっぱしの戦闘機乗りとしての意識が芽生えてくるんです」

ちょうどその頃、フィリピンでは、味方主力艦隊のレイテ島への突入を支援するため、米空母の飛行甲板を一時使用不能にする目的で、第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将のもと特攻作戦が開始される。そして、その予想以上の戦果に、当初は特攻に消極的だった第二航空艦隊も、追随して特攻作戦に踏み切った。

一晩で書いた遺書

福留中将の呼びかけに応じて、全員が志願した形となった二二一空の搭乗員たちは、次々と戦闘機の特攻部隊に指定された第二〇一海軍航空隊(二〇一空)に転勤していった。

「ニッパ椰子の葉で囲った粗末な三角兵舎のなかで、みんなでごろごろ待っていると、夜、暗くなってから要務士がカバンを持ってやってきて、『ただいまより二〇一空転勤者を発表する』とやるんですよ。そして名前を呼ばれる。一度に5人か6人ですけどね、この瞬間の気分は何とも言えません。

名前を呼ばれた者は飛び上がって喜んでるんだけど、心のなかは逆、泣いてるんですよね。それで呼ばれなかった者はガックリしたような顔をしながら腹のなかではホッとしている。明と暗がはっきりと分かれる瞬間でした」

第二航空艦隊司令長官・福留繁中将が、整列した特攻隊員を前に訓示する。杉田貞雄はこのなかにいたイメージギャラリーで見る

そして12月15日。ついに杉田にも、二〇一空への転勤、すなわち特攻隊への編入が言い渡される。

「そのとき、私はクラークのアンへレス北飛行場にいました。夜10時頃、搭乗員室に要務士がやってきて、私と山脇林(はやし)飛行兵長の二人に転勤が言い渡された。それで深夜、ライトを消した黒塗りのフォードに乗せられて、マバラカット市内にある二〇一空本部へ連れていかれました。

二〇一空では、飛行長・中島正中佐が、よく来てくれたと迎えてくれ、従兵が皿に乗せたぼた餅を運んできてくれました。そして、それを食べ終わるか食べ終わらないかのときに、飛行長から、『明朝黎明(れいめい)発進』を告げられたんです。ドキン!としてぼた餅を喉に詰まらせそうになりましたよ。こっちはまだ、口がもぐもぐ動いているのに。

で、遺書を書いて用意せよと言われるんですが、いきなり遺書を書けと言われても、いざ明日、死ぬときの心境なんて、すぐには言葉に出てこないし、実感が湧かない。

山脇と二人で、『俺は空母をやるぞ。お前は戦艦をやれ、あれは硬くて跳ね返されるぞ。だから艦橋を狙うんだ。当たった瞬間は痛いだろうな。どこまで意識があるんだろう』……などといろいろ話をしながら、少しうとうととしたらもう朝でした」

福留中将の訓示を聞く特攻隊員たち。彼らは全員、10代後半から20代前半の若者だったイメージギャラリーで見る

割り切れない思いを胸に、杉田は、宿舎に用意された藁半紙に、鉛筆で遺書を書いた。両親、兄弟、親戚、恩師、脳裏に浮かぶ人はたくさんいたが、感謝の思いを言葉にしようにも、なかなか思うに任せない。結局、杉田の遺書は、

〈遺書/大和男の子と生まれ来て/明日は男子の本懐一機一艦/親に先立つ不孝お許しください/天皇陛下万歳〉

と、ぶっきらぼうなほど短いものとなった。

「天皇陛下万歳っていうのは、まあ当時の決まり言葉ですね。ちょこちょこっと書いて最後にそう付け加えれば、なんとなく軍人らしく格好がつく。まだ18歳ですからね、虚勢ですよ。顔で笑って心で泣いて、という言葉そのままです。

空戦でも死ぬかもしれないが、それは相手を倒すことが目的で戦った結果ですから、特攻で自分から死ぬ覚悟を決めるのとは全く違う。腹のなかを整理するのが大変でした」

泣きながら突入した同期生

12月16日、飛行場に出て、黒板に書かれた当日の搭乗割(編成表・第十一金剛隊)を見ると、山脇の名前はあったが、飛行機の準備が間に合わなかったのか、杉田の名前はそこになかった。

「一瞬、選に漏れた無念と、今日は生き延びたという本能の喜びが交錯しましたが、山脇の顔を正視できない思いでした。それでもみんなと一緒に出撃前の訓示を聞いて、山脇と一緒に指揮所から飛行機の秘匿場所まで1.5キロほど歩きました。飛行機に乗る間際になって、山脇から、これを家族に届けてくれ、と遺書と髪の毛と爪の入った小さな紙の包みを渡されました。山脇が飛行機に乗り込むとき、私は一緒に左主翼の上に乗って、試運転の爆音のなか、『おい、何か言っておくことないか』と声をかけたんですが、彼は黙って首を振るばかりでした」

山脇飛長は、この日の出撃からは生還したが、12月29日、第十五金剛隊の爆装機としてミンドロ島南岸沖の敵輸送船団攻撃にバタンガス基地から出撃、戦死した。

握手で特攻隊員を見送る福留繁中将。福留は昭和46年、80歳で歿。イメージギャラリーで見る

山脇機の自爆の状況を、直掩機として出撃した荒井敏雄上飛曹が確認している。荒井が筆者に語ったところによると、山脇は離陸後ずっと、風防のなかで顔をくしゃくしゃにして泣いるのが見えて、かわいそうでならなかったという。しかも、敵船団を発見し、山脇機は敵巡洋艦後部に突入、命中するのが見えたが、爆弾が不発に終わったらしく、敵艦からは煙ひとつ立ち上らなかった。山脇は出撃後、爆弾の信管の発火装置の留め金をはずし忘れたものと思われた。

後編記事を読む<終戦後、5度の「特攻出撃」から生還した搭乗員を待ち受けていた「人々の罵声」と「仏壇に飾られていた自分の写真」>

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