【美輪明宏さん追悼・復刻連載】人間尊重しあえる言葉遣い「さん付け」 三猿精神、敬語当然 | きばいやんせ!鹿児島

【美輪明宏さん追悼・復刻連載】人間尊重しあえる言葉遣い「さん付け」 三猿精神、敬語当然

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 20日に老衰のため91歳で死去した歌手で俳優の美輪明宏さんの連載を、スポニチ本紙では約15年にわたって掲載していた。「世直しトークあれこれ」(05年11月~06年12月)、「明るい明日を」(08年1月~11年3月)、「美輪の色メガネ」(13年2月~23年12月)で、世の在り方を厳しい視線で見つめ、時に悩める人々に寄り添い、常に明日を生きる希望を伝えていた。美輪語録が人気だった連載を再録する。

<2006年4月30日掲載「世なおしトーク あれこれ(25)」>
 4月も終わろうとしています。新入社員や新入生などは、これまでとは違った新しい人間関係がスタートしたことでしょう。そういうみなさんの中には1日も早く職場になじもうとか、友だちをつくろうとか、宴会やコンパに精を出してる人も多いのではないでしょうか。
 でも、そんな飲み会ならやめた方がいいのです。酒の席ではお互い酔っぱらって見せたくないものを思わず見せてしまったり、相手の見たくないものまで見てしまったり、人間関係を築くためにプラスになることは何ひとつないのです。
 これから長い間、オフィスや教室で一緒に過ごすならいやが上にも周囲の人たちのいろいろなことが見えてくるものなのです。実はその時の対処の方法が人とのつき合い方にとって最も大切なのです。日光東照宮にある「三猿」をご存じでしょうか。「見ざる(猿)、言わざる、聞かざる」です。その意味は他人の嫌なところは見ない、そして、自分の嫌なところも見せない、他人の悪口、軽口は言わない、それから、そういうことは聞かないということです。これは誰にでもあてはまる「人生訓」なのです。
 このことさえ守っていれば、あの人は口が堅いとか、節度ある人だとか言われ、複雑な人間関係に煩わされることなく無事に過ごしていけるのです。言うなれば他人さまの余計なことに首を突っ込まない、「腹六分」の人づき合いがいいということなのです。たとえ親、夫婦、兄弟、恋人同士でも自分以外の人間とつき合う時は「腹六分」にすべきなのです。
 よくテレビのホームドラマで「水くさいじゃない、僕と君の仲だろう」などというセリフと、まるで隣の家の引き出しの中や晩ご飯のおかずまで知っているような関係は決していいものではないのです。何かボタンの掛け違いが起きた時は、近親憎悪になって憎しみは倍増、殺人事件にもなりかねない悲惨な状況になるのです。
 昔の人は、人づき合いにおいてどうやって他人とうまく距離感を保つかを考えていたのです。日本には「親しき中にも礼儀あり」という諺(ことわざ)、中国には「君子の交わり淡き水の如(ごと)し」という教訓もあります。
 そのためには、最も大切なのが言葉遣いなのです。かつて武士の家では、朝起きれば「父上、母上、おはようございます」、会話では、目下の者は「かくかくさようでござります」など、親子、夫婦、兄弟の間であっても尊敬語、謙譲語、丁寧語がちゃんと使われていたのです。明治から昭和初期までは、家庭の中でも「あなた、こうなさいますか」「じゃあ、そうしておいてくれたまえ」などと両親が会話し、学校では先生が女の子は「さん付け」、男の子は「君付け」で呼ぶ。もちろん、尊敬語、謙譲語、丁寧語が教えられ、使えて当たり前だったのです。
 相手の立場を尊重し自分の立場をわきまえる、きちんとした言葉遣いをしていれば、むやみやたらに相手の心の中に土足で踏む込むようなことはないのです。「バカヤロー、てめえ」「この野郎、うざってえんだよ」などの言葉が飛び交う家庭では、親子ともに尊敬の念など生まれようもなく、ましてや親が子供に躾(しつけ)などできるはずもないのです。
 そんな野卑な怒鳴り合いをする家族は、盗賊や山賊の仲間なのです。だから殺し合いも平気だし親を親とも思わない、子供を子供とも思わないのです。お互いに人間の尊厳のかけらもないからなのです。言葉遣いさえ気をつければ自然に親でも兄弟でも夫婦でも、もちろん、他人でもすべて1人の人間同士、人間対人間、人格を尊重しあえる関係が築けるのです。
 よく結婚式で「いい奥さんになってください」「いい旦那さんになってください」などと、祝辞を述べる人がいますが、私は逆に「そんなものになるな」と言います。なぜなら、無理があるからです。「夫」や「妻」という立場に縛られると、おのずと階級意識が生じてしまうのです。夫の権利とか、妻の権利とか、家庭内での権力闘争に発展してしまいギスギスした関係になってしまうのです。ですから、私はいつも新婚カップルには「いつまでもいい人間同士でいましょうね」とのお祝いの言葉を贈るのです。そうすれば、階級意識はなく、それでいて秩序も保たれ、相手のことを常に尊重する関係が続くのです。
 これは一般の社会でも同じことです。サラリーマンのみなさんが毎日働く会社でも、なにも「○○社長」「~~部長」「△△課長」など、意味もない身分制度の名前で呼び合う必要などないのです。何か長がつけば偉いと思っているオッチャンもいれば、逆にゴマすり見え見えで「社長、社長」と繰り返す愚か者もいる。キャバレーの呼び込みでもあるまいし。学校の教師でもないのに「先生!」と呼ばれないと不機嫌になる作家、医者、役者etc。一体、あなたたちはだれに何かを教えたことがあるのでしょうか。
 以前、「総理、総理、総理」と声高に叫んでいた女性議員がいました。本当にただただあきれるばかりです。何故、総理などと呼ぶのでしょう。「小泉さん」でいいのです。政治記者もそうです。「○○大臣、どうですか」などと、大臣呼ばわり。呼ばれた本人が皆「自分は偉いんだ」と勘違いするじゃありませんか。こういう肩書は封建制度の名残なのですから、すべて誰でも「さん付け」で呼べばいいのです。先ほど述べたように「いい人間同士」ならば、決して失礼なことではないのです。ちゃんと尊敬の念も伝わるのです。
 それにしても、戦後60年というけれど、いつになったら本当の民主主義、自由平等の世界がくるのかしら。

《自分もその墓に入る》美輪明宏さん「華々しい交友関係」と「孤独の私生活」のギャップ“家族”に明かしていた“遺言”

黄色い髪がトレードマーク(2021年)

6月20日、歌手で俳優の美輪明宏(本名:丸山明宏)さんが、老衰で亡くなった。享年91。近年は表舞台を離れ、人知れず闘病生活を送り、生前整理も進めていたという美輪さん。公式サイトには生前に綴った直筆メッセージが掲載され《こんな世の中を 生き抜く武器は 愛の言葉しかありません この世のすべての問題を 解く鍵は愛です 愛があれば 戦争なんか起こりません》と記されていた。長きにわたり平和や愛の大切さを訴えかけてきた美輪さんの生涯を追った──(前後編の後編)

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美輪さんは1935年、長崎県に生まれた。母方の実家に男児がいなかったため養子に出され、戦前の色街「丸山遊郭」で幼少期を過ごした。

長崎に原爆が投下されたのは10才のとき。目の前がマグネシウムが燃えるように激しく光り、轟音とともに大地が揺らぐ中を必死で生き延びた。終戦後、15才で上京。国立音楽大学附属高校を中退し、喫茶「銀巴里」でシャンソンを歌うようになったことが芸能界入りのきっかけとなった。

「中性的な美貌と美声が評判を呼び、常連客の三島由紀夫や江戸川乱歩、寺山修司などそうそうたる作家と面識を持ちました。歌手としては1957年のデビュー曲『メケ・メケ』や1964年の『ヨイトマケの唄』が大ヒット。タブーや偏見をおそれず、同性愛者であることもカミングアウトしています」(芸能関係者)

自らを「天草四郎の生まれ変わり」と称し、2005年から放送された『オーラの泉』(テレビ朝日系)では江原啓之氏とともにゲストの前世を導いて注目を集めた。2012年には史上最年長の77才で紅白初出場を果たしている。歌手、俳優、演出家として絶大な人気を博した美輪さんは華々しい交友関係を誇ったが、一方で私生活は孤独との闘いでもあった。

「幼い頃に母親を亡くし、戦争では多くの親族や友人を失いました。デビュー後に交際が報じられた日活のスター・赤木圭一郎さんが不慮の事故で亡くなり、三島さんが自死したときも大きなショックを受けたといいます。若い才能を見いだすことに力を入れていた美輪さんは、不器用でも魂のきれいな人が好きなんです。身寄りのない歌手や俳優を自宅に招き入れ、家族同然につきあっていた時期もありました」(美輪の知人)

銀巴里で美輪さんのステージの前座に立った歌手A氏もそのひとり。美輪さんは実の弟のようにかわいがったが、そのA氏も1990年に鬼籍に入った。

「ほかにも45才下の俳優を溺愛し、親密すぎる関係が噂になったこともあります。身長180cmの二枚目で、美輪さんは『裕ちゃん(石原裕次郎)より脚が5cm長いの』と大絶賛。自分の舞台やテレビにキャスティングして、あらゆる手を使って彼を世に出そうとしていました」(テレビ局関係者)

もっとも、その俳優も美輪さんのもとを去り、近年芸能活動はほとんど行っていなかった。近年、美輪さんの身の回りにいたのは女性のお手伝いさんと、個人事務所の社長B氏のみだったという。

「Bさんは文学座の研究生だった元俳優。美輪さんの仕事のすべてを取り仕切り、私生活もつきっきりでサポートしていたといいます」(前出・美輪の知人)

当時17才だったB氏を美輪さんが見初めたのは50年以上も前のこと。

「目鼻立ちがくっきりした主役クラスの俳優でした。普段は寡黙なのですが、舞台に立つと色気と華がある。彼の公演を毎回のように見に来ていた美輪さんは、いつしか彼を自分の付き人にして、自宅に住まわせるようになったんです」(舞台関係者)

B氏が役者を引退すると美輪さんは彼を養子として迎え入れた。その理由について、美輪さんは2013年の『週刊文春』に「ただ報いてあげたいと思うじゃないですか! 感謝です」と語り、自身の希望だったと認めている。美輪さんが全幅の信頼を置く“息子”といっていい存在だった。

「美輪さんにとってはBさんが唯一の“家族”。体力的にも長崎に還ることは難しいといい、以前は毎年のようにお参りしていた菩提寺の墓もコロナ前に改葬を済ませたといいます」(前出・美輪の知人)

その菩提寺の住職はかつてこう話していた。

「2019年頃に永代供養という形で墓じまいをされました。本当にきちんとされたかたで、長年にわたりお手紙と一緒に御仏前を送ってくださいました」

美輪さんは前述の亡くなったA氏のために1990年頃に都内の寺に墓を建てている。周囲には「自分もそこに入る」と語っていたという。

公式サイトでは冒頭のメッセージをこう説明している。

《世界各地で戦争や災害が起き、地震や洪水など大きな災害も後を絶ちません。そのたびに多くの尊い命が理不尽に奪われる悲しい世の中になってしまいました。日本国内でも闇バイト、通り魔、SNSによる誹謗中傷など、平気で人を殺めたり、傷付けたりする事件が増えているようです。美輪の願いは、この世からあらゆる差別、偏見をなくし、すべての人が平和で明るく楽しく生きていける共生社会の実現でした。その願いを込めたメッセージです。本人が常々口にしていた言葉です》

多くの人々に命や平和、そして愛の尊さを教えてくれた生涯だった。

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