『異次元緩和 経済敗戦と背徳者たち』――無謀な経済実験はなぜ行われたのか
2013年4月、黒田東彦総裁は物価上昇率2%の目標を「2年程度」で達成すると宣言し、「異次元」の金融緩和に踏み切った。だが実験は11年に及び、日銀の国債保有残高は約588兆円と、名目GDPに迫る規模まで膨らんだ。2024年3月のマイナス金利解除で異次元緩和は幕を閉じたが、日本経済はかつての成長を取り戻せていない。それどころか、止まらない円安と物価高、増え続ける利払い費といった副作用が、暮らしと財政を蝕みつつある。なぜこれほど危うい政策が、10年以上も漫然と続けられたのか。
2012年末、朝日新聞1面で第2次安倍政権の経済構想を「アベノミクス」と呼んで批判した原真人氏(元朝日新聞編集委員)が、15年にわたる取材でこの謎を解き明かす。史上最大の経済実験を構想し、実行したのは誰だったのか。元モルガン銀行東京支店長・藤巻健史氏も「金融界・霞が関震撼の一冊」と絶賛する。
(本記事は、原真人『異次元緩和 経済敗戦と背徳者たち』の一部を抜粋・編集しています)
リフレ派 傍流の逆襲
傍流学者たちの〝神輿〟安倍晋三
2011年3月11日、自民党の衆院議員、山本幸三は朝から議員会館で、みずからが中心になってまとめた「デフレ脱却国民会議」の意見書を各党の政調会長に配って回っていた。円高を是正するために日銀にあらゆる手段の実行を求めるという内容だ。
具体的には日銀の国債買い上げの上限撤廃、インフレ目標の導入、その達成を日銀に義務づける日銀法改正など。ほとんどの項目は山本が1993年の初当選以来、ずっと主張してきたことである。
山本は東京大学経済学部を卒業後、大蔵省に入省したエリート官僚だった。米ハーバード大学への留学経験もある。東大時代は経済学部の名門、小宮隆太郎ゼミに所属し、1年後輩にはちょうどこの頃、日銀総裁を務めていた白川方明がいた。
山本はこの時点で当選5回。一昔前なら大臣適齢期と言われるくらいの当選回数を重ねていた。だが本人が「不遇をかこってきた」と言うように、経歴の割には重要ポストも注目される仕事も回ってこなかった。それは一貫してリフレ政策を主張し続けてきた頑固さゆえ、と本人も自覚していた。
リフレ派の梁山泊
初当選後、党内の会合で「もっと日銀にベースマネーを増やさせないとだめだ」とまくし立てると、先輩議員たちから「何を言っているかわからん」と相手にされなかった。
山本は2010年、『日銀につぶされた日本経済』という著書を出した。それがきっかけで経済評論家の勝間和代から、発足準備中の「デフレ脱却国民会議」に顔を出さないか、と誘われた。そこには山本の意見に近い考えを持つリフレ派のエコノミストたちが集っていた。山本はそこで初めて、同じ経済理論を共有するメンバーらと交流するようになった。
デフレ脱却国民会議は2010年8月末、衆院議員会館の大会議室で第1回の会議を開いて発足した。
呼びかけ人になったのは勝間のほか、事務局長で勝間のビジネスパートナーの上念司(経済評論家)、宮崎哲弥(評論家)、岩田規久男(学習院大学教授)、高橋洋一(嘉悦大学教授)、森永卓郎(獨協大学教授)らテレビや週刊誌などによく登場するタレント的な論者たちだった。
経済学者からも浜田宏一(米エール大学教授)、野口旭(専修大学教授)、若田部昌澄(早稲田大学教授)、田中秀臣(上武大学教授)、浅田統一郎(中央大学教授)、飯田泰之(駒沢大学准教授)ら日銀の金融政策に批判的なリフレ論者が集まっていた。
会議メンバーの顔ぶれを見ると、リフレ派のネットワークと発信力がすでにここにほぼ集結していたことがよくわかる。その後、マスメディアやSNSを通じて猛烈な勢いでアベノミクスを世に知らしめていく面々はこうして組織化された。
ただ、この時点でほとんどのメンバーは論壇や学界のアウトサイダーに過ぎなかった。リフレ論は主流派から相手にされておらず、リフレ理論は暴論とみなされていた。
メンバーたちはそんな状況を脱するためにこの会議を組織した。だが道は険しかった。同調してくれる政治家は山本のほか、自民党元幹事長の中川秀直、民主党の小沢鋭仁ら数えるほどしかいない。何よりリーダーとして担ぎ上げる「神輿」が見つかっていなかった。
「神輿」に群がるリフレ派
2011年3月11日午前、山本は同会議がまとめた意見書を議員会館の目当ての部屋に配り終えると、国会記者クラブの記者たちに説明に行った。それからほんの数時間後の午後2時46分、東京・永田町の国会や議員会館は震度5強の大地震に襲われた。死者・行方不明者が2万2000人以上に及んだ東日本大震災である。
山本はその6日後、「日銀に20兆円規模の国債を引き受けさせ、被災地の救助・復興支援の財源を作るべきだ」という新たな意見書をまとめ、議員会館のすべての国会議員事務所に配付した。その後もほぼ毎週、同様の意見書を作っては議員たちに配り続けた。
せっかく配っても、たいがいの議員は山本の意見を暴論呼ばわりして話も聞いてくれなかった。その中でひとり、自民党衆院議員の田村憲久だけが「おもしろい」と言って話に乗ってくれた。田村と2人で「議員連盟を立ち上げよう」という話になった。
さて会長は誰にお願いしようか。そんな議論になった時、田村が「安倍晋三さんがいい」と言い出した。安倍は政権を担っていた4年前、自身の健康問題でわずか1年で退陣に追い込まれてから無役で、歯痒い思いを抱いていた。
山本はリベラル色の強い宏池会に所属していた。「右っぽいイメージ」の安倍のことは、これまでどちらかと言えば敬遠していた。その時、ふと思い出した。「たしか安倍がどこかの講演で『私が官房副長官の時の日銀のゼロ金利解除も、官房長官をやっていた時の量的緩和解除もいずれも問題があった』と日銀を批判していたなあ……」
「案外いいかもしれない」。山本は田村案に乗った。
5月19日、山本は議員会館の安倍の部屋を訪ねた。新たに議員連盟「増税によらない復興財源を求める会」を立ち上げたいと説明し、会長への就任を要請した。
「安倍さん、もし復権をめざすなら『憲法の安倍』『教育の安倍』だけじゃだめです。『経済の安倍』と言われるようにならないと」。そう口説くと、安倍も「その通りですね」と乗り気になった。会長就任も即座に引き受けてくれた。
山本が仕掛けた新たな議員連盟の初会合が開かれたのは6月末だった。その場で会長となった安倍のスピーチを聴いた山本は「この人は頭も勘もいい」と思った。
議員連盟の勉強会には、浜田や岩田らリフレ派の重鎮たちを毎回、講師に招いた。安倍は浜田や岩田の著書を必ず熟読してから参加した。「政策も理論も的確に押さえるべきところを押さえている」。山本はすっかり安倍という政治家に心酔した。
リフレ派財務官僚
ちょうどその頃、安倍の旧知の財務官僚、本田悦朗がロンドンの出向先での勤務を終えて帰国した。本田は安倍のもとにあいさつに訪れ、「日銀にリフレ政策をやらせる必要があります」と持論を披露した。すると安倍が即座に「そうなんだよ」と応じた。
意外だった。一般的な経済理論とは違う持論を披露しても、いつもたいがいの人は賛同してくれない。それを安倍がすぐに理解してくれたことに本田は驚いた。「安倍さんは相当、経済を勉強しているな」と本田は感じた。
安倍は山本の議員連盟での勉強会で、リフレ論をすっかり頭にたたき込んでいた。
リフレ派の期待を一身に背負った男
それに意を強くした本田は、自分が主催する安倍を囲む勉強会も別途、立ち上げた。こちらにも講師に招いたのは浜田や岩田ら同じリフレ派の顔ぶれだった。安倍は本田と山本の両勉強会を通じて、リフレ論を集中的に学ぶことになった。
後に安倍が日銀に要求することになる金融政策の構想は、このリフレ派学者たちとの交流の中でアイデアを取り入れ、練り上げて作り上げたものだった。
浜田や岩田らにとっても安倍を囲む勉強会は重要な取り組みだった。リフレ論は長年、「異端の理論」とみなされ、日銀からも学界からも相手にされなかった。隅に追いやられてきたこの理論を、ようやく日の当たる場所へと押し上げてくれる「スター」が現れた──。リフレ派の人々の期待を安倍は一身に背負っていた。
2012年7月9日、山本は九州の建設会社が開いた懇親会に出席すると、たまたま安倍と同席になった。9月におこなわれる自民党総裁選が近づいていた。ここに至っても安倍はまだ総裁選出馬をためらっていた。不本意に退陣せざるを得なかった第1次安倍政権の経緯を考えれば、もし再度出馬して負ければ、安倍の政治生命そのものが危うくなりかねない。慎重になるのは当然だった。
それでも山本は「総裁選に出たらいいじゃないですか」と熱心に口説いた。心の底からそう思っていた。リフレ派の議員連盟やデフレ脱却国民会議のメンバーたちも、おそらく同じ思いだった。山本は安倍の背中を懸命に押した。
9月12日、安倍は自民党総裁選への出馬を表明した。
自民党本部で26日におこなわれた総裁選で、安倍は下馬評を覆し、勝利した。決選投票で前政調会長の石破茂を破って第25代総裁に選ばれた。総裁経験者の再登板は自民党の歴史で初めてのことだった。
総裁選後の記者会見で、安倍は「新総裁の使命は日本を取り戻し、政権を奪還することだ」と力を込めた。
(本記事は、原真人『異次元緩和 経済敗戦と背徳者たち』の一部を抜粋・編集しています)


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