西郷隆盛にも影響をもたらした「薩摩藩士のリーダーシップ」、郷中教育の教育システムとはどんなものだったのか? | きばいやんせ!鹿児島

西郷隆盛にも影響をもたらした「薩摩藩士のリーダーシップ」、郷中教育の教育システムとはどんなものだったのか?

幕末維新史探訪2025(33)西郷隆盛の生い立ちと青年期―思想の形成と指導力の涵養②

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西郷隆盛像 写真/GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

郷中教育が育んだリーダーシップ

 西郷隆盛をはじめとする多くの才気あふれる志士たちが薩摩藩から輩出された要因は、藩特有の郷中教育という「学びのシステム」の存在にあった。薩摩藩に有名な私塾が存在しなかったのは、私塾が必要ないほどしっかりとしたシステムが確立されていたからであった。薩摩藩では、松下村塾は必要なかったのだ。

 郷中教育は、武士階級が25%以上を占め、南国特有の荒くれ者である薩摩武士の謀反の芽を摘み、風紀の乱れを是正し、忠誠心(徳育)を涵養するために島津家によって生み出された。幕末期には、外国船の出没や琉球への通商条約要求といった対外的な危機的状況に対応できる人材育成が急務となり、このシステムが活用された。

 郷中教育の最大の特徴は、鹿児島城下と地方の外城を合わせた約150の「郷中」を単位とし、青少年の自治組織である咄相中が教育を行った点にある。構成員は、小稚児(6~10歳)、長稚児(11~15歳)、元服した青年である二才(約25歳まで)、そして既婚の先輩である長老に分けられ、身分も年齢も異なる彼らがグループを構成し、知育、徳育、体育に励んだ。

 西郷は下加治屋町郷中に所属し、大久保利通や吉井友実らと共に学び、二才頭となって、村田新八、大山巌、弟の西郷従道といった後進の指導にあたっていたのだ。

郷中教育とはどのようなものだったのか?


鶴丸城 (鹿児島城) の復元された御楼門  写真/show999/イメージマート

 郷中教育の重要な特徴は、カリキュラムや先生が存在しなかったことである。二才を中心に、何をどう学ぶか、どのような掟を定め、守らなかった者にどのような罰を与えるかまで、自分たちで取り決めており、試行錯誤を通じて強い自立心を養った。

 また、郷中教育は極めて実践的であった。いわゆるケーススタディを重視し、「隣の郷中が難癖をつけてきた場合の対処法」といった身近なテーマから、「もしも琉球に異国船が来航して居座ったら、どう対応するか」といった政治的な問題まで、徹底的に議論された。これは、海洋国家として常に外国からの侵略を肌身で感じていた強烈な危機感に基づき、最善の結果を導く判断力や決断力を養うための実践の場であり、薩摩藩特有のリアリズムを生むことにつながった。

 郷中同士は互いにライバル意識を抱き、相撲や山坂達者(長距離踏破)などで切磋琢磨した。血気盛んな若者たちの郷中間のいさかいも少なくなく、刃傷沙汰も記録に残るほどであった。西郷自身も、13歳の時、郷中間の喧嘩で右腕を斬られ、腕が曲がらなくなったため剣の道を諦めざるを得なかったと伝えられている。このため武勇伝は全く残っておらず、彼はもっぱら勉学に打ち込んだとされるが、相撲は終生変わらず好きであった。

 一つの郷中が一つの国のような感覚となり、周辺の郷中とどう付き合うかを考えることは、そのまま政治・外交交渉の訓練ともなっていた。薩摩藩が他藩を抜きん出た政治力や外交力を有した源泉は、この郷中教育に見出すことができる。西郷隆盛は、郷中教育で養ったリーダーシップ、判断力、決断力、政治力、交渉力を駆使し、幕府や他藩と巧みに距離を取りながら、難解な幕末政局の舵取りを行ったのであったのだ。

西郷のキャリア形成と迫田大次右衛門の影響

 弘化元年(1844)、18歳になった西郷隆盛は郡方書役助の役職に就き、4石の給与を得るようになった。郡方とは、農村を回って村役人を監督指導し、作柄を調査しながら年貢を取り立て、灌漑施設の整備を行うなど、農政全般を担当する役職である。西郷は後に書役に昇進し、27歳までの10年間、この農政の仕事に励んだのだ。

 一方、大久保利通は西郷より2年遅れの17歳で、藩庁で文書を扱う事務官僚の末端である記録所の書役助となり、4年間務めた。西郷が農村という現場で農民と直接接する封建領主権力の為政者の末端であったのに対し、大久保は藩庁で文書を扱う事務官僚の末端であった。この初期キャリアの違いは、その後の政治家としてのスタイルに影響を与えたと考えられている。


薩摩藩士時代の大久保利通

 西郷が最初に仕えた奉行は迫田大次右衛門であったが、彼は気骨があり実行力があり、農民を慈しむ豪傑であった。嘉永2年(1849)ころ、凶作であっても年貢の取り立てを厳しく行うよう藩庁から指示があった際、迫田は、「虫(藩庁)よ虫よ、五ふし草(農民)の根を絶つな、絶たばおのれも共に枯れなん」という言葉を残して辞職した。

 この言葉は、「藩庁(虫)よ、農民(五ふし草)の根を絶つような無理な年貢取り立てをするな。もし根を絶って農民を死に追いやれば、その藩(虫)も共に立ち行かなくなり、枯れてしまうぞ」という意味である。そこには、藩政への痛烈な警告と批判が込められていた。

 この事件は西郷に終生の感銘を与え、西郷自身もこれ以降、時々この「五ふし草」の言葉を暗唱したとされる。西郷は迫田に勝るとも劣らず藩庁の苛政を憤り、意見書を提出し続けたのだ。

西郷隆盛の政治思想の涵養

 しかし、西郷隆盛の農政思想は、単に農民を慈しむ心を持つに留まり、租税体系そのものを改めて農民を救済しようとか、地位向上を図ろうといった考えはなかった。彼はあくまで、役人の不正や苛政を憎み、為政者が公正かつ清廉潔白に振る舞うことによってのみ農政が安定し、その結果として年貢の円滑な取り立てと生産力の向上につながると主張したのだ。

 つまり、西郷は封建的為政者として農民に対峙していたことには変わりはなかったが、この郡方書役時代に、後の政治思想の原点を培ったと言えよう。

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