古今東西、鳥居はくぐるものと相場が決まっている。だが、日本全国津々浦々を見渡せば、くぐることの叶わない奇妙な鳥居がちらほら。
そんな奇妙な鳥居の一つが、鹿児島の錦江湾に浮かぶ桜島にあるという。さて、どうしてくぐれないのか、いったいどんな見た目なのか。
鹿児島県・桜島
というわけで、桜島東部に位置する黒神町にやってきた。
お目当ては中学校のすぐそば
県道26号線に面して立つ鹿児島市立黒神中学校。桜島に三校ある中学校のひとつで、目的の鳥居はこの学校のすぐそばにあるという。
校庭沿いを歩いていく
陽の当たる広々とした校庭を眺めながら歩いていると、こんもりと木々が覆いかぶさる、どこか薄暗い小径が現れた。
木々に覆われた小径
この先に鳥居が立つ神社があるはずなのだが、幅の狭い小径には通行を妨げるハードルのようなものがあり、前方を塞いでいる。先へ進むにはこれを跨がなければならないのか。
もちろん、そんな罰当たりなことをしてはいけない。これが鳥居なのだから。
これが世にも珍しい“くぐれない鳥居”なのか
どうすれば鳥居の先に行けるのか
あまりにも唐突に姿を現した鳥居。他の参拝客も「こんなすぐの場所にあるんだね」と口々に言っていた。
近づいてみると、腰ほどの高さしかない。石でできた鳥居はほとんど笠の部分のみ。足がないのだ。これではどうにも、くぐりようがない。笠の中央に据えられた扁額には、「腹五社神社」という文字がうっすらと刻まれていた。
鳥居の扁額と呼ばれる部分
本来なら鳥居をくぐって神域に入るべきだが、仕方がないので迂回する。
左脇はアコウの木が幾筋も根を張っていて通れないが、右脇なら人ひとり通れそうな空間がある。

左脇は塞がっている
右側には通路のようなものが
ここが流行りの神社で参拝客が多く集まる初詣のときだったならば、大渋滞ができているに違いない。
ここまで参拝客の侵入を拒むなんて、奥に坐す神様は人嫌いなのだろうか。いや、そうではない。
鳥居のそばに隠されたヒント
もはや障害物としか言えない鳥居が立つ理由。そのヒントは、地面を覆うサラサラの砂だ。
地面を覆う砂の正体は…
これは灰だ。火山灰によって足が埋まってしまったのだ。
元々は3メートルの高さがあり、ちゃんと参拝客がくぐることができた鳥居。ところが、たった1日で軽石や火山灰が2メートルも積もったという。
鳥居の足が完全に埋もれてしまうほどの火山灰を一瞬に降らせた噴火とは、いかなるものだったのか。
火山灰によって埋まってしまった?
日本地図を変えてしまった大噴火
言わずもがなだが、桜島は現在も活動を続けている世界有数の活火山だ。約2万6000年前に誕生し、現在までに大規模な噴火を17回も繰り返している。
腹五社神社の鳥居を埋めてしまったのはその内の一つ、大正大噴火である。日本が20世紀に経験した最大規模の噴火と言われ、日本地図を変えるほどの大きな噴火だった。
大正3(1914)年1月12日午前10時5分、黒煙を噴き上げた桜島はその10分後には大音響とともに爆発。黒煙は上空7000mまで達し、全島を覆い尽くした。

災害時の鳥居
間断なく轟く爆発音と火山雷、降り注ぐ噴石の雨。さらに翌13日から溶岩の流出が始まり、30億トンもの量を1ヶ月以上にわたって流し続けた。
桜島はそれまで文字通り、錦江湾に浮かぶ島だった。ところが、その東側の幅約400m、深さ約70mの海峡が溶岩で埋まってしまう。このとき、現在の地図が示す通り、桜島と大隅半島が陸続きになったのだ。
現在の鳥居
黒神はというと、全戸が火山灰によって埋没。神社の鳥居もすっぽりと埋まるはずである。
鳥居の先まで行ってみる
さて、埋没鳥居の先をゆく。
すると、いきなり制服姿の生徒が数人、目の前を横切った。いったいどういうことだろうか。
なぜ平日の昼間なのに学生が?
実は腹五社神社の境内は、黒神中学校の敷地に挟まれたような場所にあり、境内奥へ向かって左に校舎、右に給食室や体育館などの建物が立っている。
左右の学校施設の間にある屋根
そのため、鳥居から本殿へ向かう途中に屋根が設けられた場所があり、そこは境内でありながら学校の渡り廊下のような役割も兼ねるという、なんとも不思議な空間になっているのだ。
制服姿の生徒が横切ることも
木々と校舎によって日差しは遮られているものの、生徒たちの賑やかな声で生気に満ちた雰囲気が感じられた。
コンクリート製のお社が出現
渡り廊下を抜けて先へ進む。火山灰の参道は木漏れ日でぽうっと明るい。
木漏れ日が刺す荘厳な境内
その奥に簡素な造りのお社が立っていた。
コンクリート製のお社が
本殿と拝殿から成り立ち、手前の拝殿はコンクリートでできている。桜島には噴火時に身を守るための退避壕(シェルター)があちこちに設置されているので、それを兼ねているのかもしれない。
腹五社神社は原五社神社とも書くそうだ。祀られるのは月読命(ツクヨミノミコト)・彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)・素戔嗚尊(スサノオノミコト)などで、創建は判然としない。
噴火時のシェルターも兼ねているのだろうか
寛永2(1625)年、薩摩藩初代藩主・島津家久の命で社殿が浜辺に移され、寛政10(1798)年に現在地へ遷宮したと伝わる。要するに古くからこの地を守ってきた神様というわけだ。
『桜島噴火記』(柳川喜郎著/南方新社/2014年)によると、そんな神様を黒神の人々は命がけで大切にしてきたようだ。
3日前から観測されていた“前兆”
神社の近くに住む一家3人は、周囲の人々に避難を勧められたにも関わらず、ご神体を守る義務があると言って神社に踏みとどまった。噴火のあとも救助船が来るまで2日間、軽石と火山灰が降りしきる中を耐え抜き、ご神体とともに救助された。
境内に根を張るアコウの木
だが、神様のご加護はあまねく人々には及ばなかったらしい。黒神では10人の死者・行方不明者を出している。そして、鹿児島県全域では約170人の死傷者が発生。稀にみる大規模災害でありながら、犠牲者は少なかったと言えるかもしれない。
いまや隠れた観光スポットに
とはいえ、噴火は突然起きたのではない。その前兆が3日も前から見られたという。
島内の至るところで井戸水が沸騰し、海岸には大量の死魚が浮き、地震が断続的に起きていたという。桜島には江戸時代に起きた安永大噴火の言い伝えがあり、これらを噴火の前触れと考えた島民は多かった。
それなのに、なぜ犠牲者が出てしまったのか。
約100年前に建てられた石碑
腹五社神社を後にして、桜島の南部に位置する東桜島小学校へ向かう。ここに「桜島爆発記念碑」と呼ばれる石碑が校庭の片隅にひっそりと立っている。学校の許可を得て、実際の石碑と対面することができた。
校庭の片隅に立つ桜島爆発記念碑
建立から約100年が経ち風化しつつあるが、石碑の裏には「住民ハ理論ニ信頼セズ」と刻まれている。
当時は第一次世界大戦を機に日本の科学技術が大きく飛躍した時代。それなのに「理論を頼みとするな」とはなかなか挑戦的だ。いったいどういう意味だろうか。
“科学を信じない”石碑が誕生したワケ
内閣府の「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1914 桜島噴火」(2011年)は、大正大噴火について「鹿児島測候所の情報が、事態の深刻さを打ち消す方向に働いたことは否定できない」と評価している。
鹿児島測候所とは、当時、鹿児島市北部に存在した気象庁の下部組織にあたる地方機関だ。
桜島から鹿児島市内中心地を眺める
桜島の異変は誰の目から見ても明白だったようで、県や警察、新聞社、そして桜島の村役場など、あらゆる機関がこの鹿児島測候所に問い合わせをしていた。
すると、鹿児島測候所は「櫻島ニハ噴火ナシ」と答えたのだ。その回答は各所に広まった。
救えたかもしれなかった命
だが、地震と鳴動はひっきりなしに続く。不安を募らせた島民たちは、安永大噴火を教訓にそれぞれの判断で避難を始めた。
一方、鹿児島測候所の“安全宣言”を科学的判断と捉えて信じた知識人は島に留まった。
桜島と大隅半島の境目にある交差点
古の言い伝えと科学が対立した。その結果、一部の島民が逃げ遅れ、尊い命が失われたのだ。
内閣府の報告書によると、島から脱出しようと極寒の海に飛び込んだ人々もおり、地獄絵図の様相を呈したという(「当時の測候所長が噴火予知・予報が出来なかった理由と弁明は現在の火山研究者にとっても納得できるものである」とも報告される)。
鹿児島測候所の言を信じた知識人、特に島民を先導した指導者層の悔恨は計り知れない。中には、噴火発生直前まで避難を制止した人もあったというのだから。
石碑の「住民ハ理論ニ信頼セズ」という激しい言葉には彼らの忸怩たる思いが表れている。
埋没鳥居を残した村長の決断
後日、黒神の住民はけなげにも、すっぽりと埋まってしまった腹五社神社の鳥居を掘り起こそうとしたらしい。
しかし、村長が噴火の猛威を後世に伝えようと発掘の中止を指示。こうして世間の目を引く奇妙な姿のまま保存されることになった。現在、「黒神埋蔵鳥居」として県の文化財に指定されている。
目印となる看板も
鳥居に隣接する黒神中学校には横断幕が掲げられていた。そこには「78年間ありがとう」「閉校記念式典 令和8年3月11日」などの文字が。
まもなく閉校となる中学校
桜島にある8つの小中学校が統合され、小中一貫の義務教育学校「桜島学校」が今年4月に誕生するという。これに伴って黒神中学校は閉校するのだ。
中学校の生徒たちが時折、境内を掃き清めていたという「腹五社神社」。この地で長く彼らを見守っていた神様もさぞ寂しかろう。
大隅半島から見た桜島
撮影=林らいみ





















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