3歳で両手両足を失い、生きるために「見世物小屋」で働いた中村久子の壮絶な人生 | きばいやんせ!鹿児島

3歳で両手両足を失い、生きるために「見世物小屋」で働いた中村久子の壮絶な人生

投稿者: 北森詩乃

  • 2026/9/11
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    画像:中村久子 1937年(昭和12年)に来日したヘレン・ケラー女史に贈る人形と共に public domain

    中村久子とは、障害を持ちながらも、明治から昭和にかけての激動の時代を強く生き抜いた女性だ。

    幼い頃に両手両足を失った久子は、父と早くに死に別れて苦労続きの幼少時代を送り、20歳を前に自立を決意して見世物小屋の一座に入り、芸人「だるま娘」として生きていく道を選んだ。

    久子を襲った困難は、手足の障害だけではない。
    結婚した夫とは死に別れ、幼い我が子を亡くし、悲嘆に暮れた日々もあった。

    だがそんな日々の中でも、久子は生きる希望を失わなかった。

    今回は、手足を失いながらも自立して誇り高く生き続けた、中村久子の生涯に触れていきたい。

    中村久子の生い立ち

    画像:岐阜県高山市神明町四丁目にある、高山市政記念館。旧高山町役場および初代高山市役所。 wiki c Miyuki Meinaka

    中村久子は1897年(明治30年)11月25日、現在の高山市にあたる岐阜県大野郡高山町で、畳職人の釜鳴栄太郎と妻あやの間に生まれた。

    両親にとっては、結婚11年目にしてようやく授かった待望の第1子だった。

    久子は生まれつき手足の障害があったわけではなく、2歳の時に冬の高山で皮膚が黒ずむほどの凍傷を負ったことが原因だった。

    左足から始まった症状はやがて両手と右足にも表れ、幼い久子の両手足は真っ黒になり、焼けるような痛みと高熱に苦しみ続けたという。

    そして家族や親族が、壊死した手足を手術で切断するべきかどうかで揉めているうちに、3歳になった久子の左手は手首からポロリと崩れ落ちてしまった。

    その後の約1年間で久子は幾度もの手術を受け、右手は手首、左足は膝とかかとの中間、右足はかかと付近から先を失った。

    一介の畳職人の家計からは高額な麻酔代を捻出することはできず、手術は麻酔なしで行われた。

    両親は久子の医療費のために借金を抱えながら必死に働いたが、久子が7歳の時に父・栄太郎が、過労と心労がたたって急性脳膜炎で急逝してしまう。

    栄太郎は高熱にうなされながら、久子を抱きしめて「久子、お父ちゃんが乞食になっても、死んでも決して離さないよ」と叫んで倒れ込み、その3日後に息を引き取ったという。

    継父の冷遇と、祖母と母の厳しい躾

    画像:岐阜県高山市、弥生橋より宮川を望む wiki c Bernard Gagnon

    夫を失った母あやは、借金を抱えたまま久子を連れて故郷に戻った。久子には弟の栄三もいたが、栄三は父方の実家に預けられた。

    久子が8歳の時に母は生活のために再婚したが、障害のある久子は継父に冷遇され、人目を避けて2階に閉じ込められる不自由な生活を強いられることになる。

    さらには10歳の頃、久子は急病により一時的に両目の視力を失ってしまった。

    母は手足もなく両目も見えなくなった久子の将来を悲観し、久子を背負って高山の宮川の上流まで行き、共に身を投げようとした。

    だが久子が急流の音を聞いて怖がって泣いたため、母は我に返って心中を思い留まった。
    その後、病院での治療のお陰で久子の視力は奇跡的に回復したが、借金はさらに膨れ上がった。

    弟の栄三はその頃に育児院へと送られて生き別れ、久子が23歳になった頃に夭折している。

    母は、手足の無い久子が親亡き後も1人で生きていけるようにしなければならないと決意し、厳しい躾と教育を行うようになった。

    その厳しさは、久子が「自分は本当に母の娘なのだろうか」と疑うほどだったという。

    画像:明治期に撮影された和裁風景。イメージ 袷の長着を縫っている様子 public domain

    母はある日、11歳になった久子の前に着物と裁縫道具を置き「この着物の糸を解いてみなさい」と命じた。
    手足がない久子はやり方がわからず戸惑ったが、母は一切甘えを許さなかった。

    久子は試行錯誤の上、口で糸切りハサミを使い留め糸を切ることに成功する。

    それから口や短い腕の先を使って縫物をすることを覚え、猛特訓の末に誰の手も借りず、人形の着物を縫い上げられるようになるほどに上達していった。

    また、祖母の教育によって礼儀作法や読書の楽しさを知り、書道も人並みにできるようになった。

    母が身の回りの世話をあえてしなかったことで、久子は生きるために必要な家事も一通りはこなせるようになる。

    このように少女時代の久子を取り巻く環境は、決して優しいものではなかった。しかし母と祖母は久子を厳しく愛情深く、一人前の人間になれるように育てようとした。

    しかし借金を抱えながらの生活は、いつまでも苦しいままだった。

    思い悩んだ久子は、義父の親友の勧めで見世物小屋に勧誘され、芸人として自立して生きることを決意する。

    1916年、久子が故郷を離れる時、母は荷車に乗せられて去っていく娘の姿を、いつまでも見送り続けていたという。

    見世物小屋の「だるま娘」として生きる日々

    画像:現代の見世物小屋(大寅興行社(2008年10月)) wiki c Kounosu

    見世物小屋の一座に入った久子は、芸人「だるま娘」として舞台に上がり、少女時代に身につけた裁縫や編み物、書道を芸として披露するようになった。

    手足のない久子の器用さは観客を驚かせたが、刺激に飢えた一部の観客の中には「そんなものは芸ではない」と野次を飛ばす者もいたという。

    芸人として各地を回る生活を送るようになり、興行に関わること以外の家事は自らこなさなければならなかったが、母から受けた躾の甲斐もあり、他人の手を借りずに自活することができた。

    しかし苦労は尽きず、客の入りが悪ければ興行主に罵倒され、唯一の趣味であった読書をする姿を同僚に見られれば「障碍者のくせに生意気だ」と嘲笑われた。

    だが久子は心無い言葉にめげずに、芸を磨き続けた。

    苦難の日々を送る久子の心を慰めたのは、古本屋で買った『万葉集』などの古典を読むことと、短歌を詠むことだったという。

    久子の興行は人気を博し、医療費でかさんだ実家の借金を返すことはできたが、芸人として自活し始めてから20代半ばになる頃までに、祖母と弟、そして母が相次いで亡くなってしまった。

    孤独と悲嘆に暮れた久子の支えとなったのは、1人目の夫とのつかの間の結婚生活だった。

    久子が経験した4度の結婚と座古愛子との出会い

    画像:兵庫県西宮市にある神戸女学院大学理学館。ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計。スクラッチタイル張りの近代建築。 wiki c Miya

    久子はその生涯のうちに、1度の事実婚を含む4度の結婚を経験している。

    1人目の夫と2人目の夫は優しい人物だったが、2人とも子供が生まれてから間もなく病気により急逝している。

    29歳にして幼い2人の子供を抱える未亡人となった久子は、3人目の夫と入籍せず事実婚の状態で暮らすようになった。

    しかし3人目の夫は女遊びと浪費が激しい男で、自分の子供が病気で瀕死になっても家庭を顧みることもなく、生まれた三女は生後10ヶ月の時に病死してしまった。

    それでも芸人として興行を続けるためには男手が必要で、久子は3人目の夫とすぐに別れることはできなかった。

    夫の浪費で経済的に困窮する生活の中で、ある時、神戸女学院で働く座古愛子(ざこあいこ)という女性の存在を知る。

    愛子は少女時代に病を患い、やがて首から下が不自由となったが、神戸女学院の購買部を任されるなど自ら働いて生きる女性だった。

    神戸女学院を訪れた久子は愛子と対面し、二人は互いの姿を見つめながら、言葉を交わす前から涙を流した。

    久子は愛子の穏やかで光り輝くような表情を目の当たりにして、それまで自らを縛り苦しめていた運命への恨みや、厳しく育てられたことへのわだかまりから、初めて解放されたのだという。

    愛子との出会いをきっかけに、久子は自らの新しい生き方を模索し始めた。

    そして3人目の夫とも別れ、1930年代に同じ一座で働いていた中村敏雄と再婚する。

    その後も興行生活を続けたが、1942年に芸人を引退し、やがて文筆や講演を通じて自らの体験を伝えるようになっていった。

    晩年まで「生かされる喜び」を伝え続ける

    画像:岐阜県高山市天満町の浄土宗寺院、善光寺 wiki c 大野 一将

    久子は文筆家として書籍を出版しながら、優しい夫や娘に背負われて全国を巡り、講演家としても活躍した。

    肉体がどれほど不自由であっても心は自由であることを訴え、多くの人々に生きる希望を与えようとした。

    久子はかつて母の厳しさを恨んだこともあったが、優しく甘やかすことだけが愛ではないことを身をもって教えてくれた母に対する感謝を語り、多くの人との出会いの中で得た「生かされる喜びと尊さ」を伝え続けた。

    1937年に来日したヘレン・ケラーと対面した時、久子は自作の日本人形をヘレンに贈った。
    ヘレンは久子を抱きしめてその腕と足を確かめ「私より不幸な人、そして私より偉大な人」という言葉で賞賛した。

    手足がなくとも自分1人で生きていくことを決意した久子がたどり着いたのは、人は誰もが誰かによって生かされているという答えだった。

    晩年まで精力的な活動を続けた久子は、1968年3月19日、高山市天満町の自宅で、70歳でその波乱の人生に幕を閉じた。

    生涯を通じて自活に努め、精力的に働いた久子の遺体は、本人の遺言通り娘たちによって献体され、医学の発展に貢献したという。

    参考文献 :
    中村 久子 (著) 『こころの手足
    中野惠美子「自伝に見る障害女性の生き方 大石順教・中村久子」『ノーマライゼーション 障害者の福祉』2010年11月号
    鍋島直樹「中村久子の生死観と超越(中)」他
    文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

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