坂本龍馬は「薩長同盟の立役者」ではなかった…それでも命を狙われた「英雄」が近江屋から動けなかったワケ | きばいやんせ!鹿児島

坂本龍馬は「薩長同盟の立役者」ではなかった…それでも命を狙われた「英雄」が近江屋から動けなかったワケ

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坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか。歴史小説家の伊東潤さんは「当時の龍馬は幕府にとって忌々しい存在だった。命を狙われていると忠告もされていたのに、油断と慢心から危険を回避できなかった」という――。

※本稿は、伊東潤『偉人・敗北からの教訓』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。

龍馬はあくまで「薩摩側の使者」

――龍馬の事績として大きいのが、薩長同盟の仲介役となったことですね。

その通りですが、昨今はこの件での龍馬の貢献を過小評価する人が多くなりました。実際はどうだったのでしょう。

これまでは薩長の間を龍馬が取り持ち、慶応二(1866)年に薩長同盟が成立したという認識でしたが、実際は双方が主体的に動き、同盟が締結されたというのが事実のようです。

いずれにせよ薩長同盟は倒幕を目指した軍事同盟ではなく、長州藩が幕府の処分に同意しないことを前提とし、「長州藩の冤罪をそそぐために薩摩藩が周旋する」ことに主眼が置かれた同盟でした。しかも幕長戦争が始まっても、薩摩藩は中立を貫くという前提でした。

残念ながら、龍馬が木戸孝允と小松帯刀・西郷隆盛の間を周旋し、薩長同盟を成立させたという史実はなく、あくまで薩摩側の使者として交渉にあたり、最終的に、双方の覚書に裏書きし、証人になったというのが事実のようです。ある意味、元土佐藩士という立場をうまく利用したわけです。

立役者ではないが、仲介者ではあった

――この時の龍馬の立場は何だったのですか?

薩摩藩士です。龍馬といえば土佐出身なので土佐藩士と考えるのが自然ですが、この時は薩摩藩にスカウトされていました。しかし龍馬としては、維新回天の偉業の達成には土佐藩の力が必要だと思っており、これ以降も積極的に土佐藩に接触していきます。つまり薩摩藩としては、龍馬の人脈をうまく使いたかったのです。

――薩長同盟締結の立役者ではないにしろ、両藩に深く関わっていく龍馬ですが、その後の薩長両藩との関係はどうなったのですか?

まずこの覚書を機に、薩長双方の人的交流が始まり、これまでのわだかまりが消えていきます。その後、第二次長州征伐により、幕府軍の弱さが露呈され、戊辰戦争への流れができていくわけです。そうした細かい人的交流にも龍馬が介在していることがあり、龍馬が双方の融和に努めていたのは事実です。

実行犯・見廻組の裏に誰かいたのか

――大政奉還が行われ、いよいよ新政権の発足も見えてきた頃、龍馬は突如暗殺されてしまいます。この暗殺には様々な犯人説が唱えられていますが、実際のところはどうだったのでしょう?

龍馬を「誰が殺したのか」という話題は尽きません。しかし明治三年に今井信郎が自ら暗殺したことを自白することで、龍馬暗殺の実行犯は見廻組だったと分かりました。

今井信郎

今井信郎(塚本昭一著/Public domain/Wikimedia Commons

ただし黒幕は誰かというと、今でも物議を醸しています。というのも見廻組組頭の佐々木只三郎はじめ実行犯7人のうち、今井を除く6人は鳥羽・伏見の戦いで戦死しており、今井の証言だけが頼りだからです。その今井は見張り役なので現場にもおらず、7人の中で最も下っ端だったので、黒幕については全く与り知らないとされています。

この頃の龍馬は薩長融和を取り持ち、幕府にとって忌々しい存在でした。そのため探索方によってその動静が掴まれていました。

龍馬自身も暗殺の危険性があるのを知っており、近江屋という醤油商の店の二階に潜伏していたのですが、人の出入りが激しく、幕吏が所在を掴むのは容易でした。

幕臣の忠告を無視し、命を落とした

人というのは長い緊張に耐えられません。そのうち緊張状態に慣れてしまい、油断や慢心が生まれてきます。その典型が吉良上野介とこの時の龍馬です。

襲撃の5日前、龍馬は幕臣の大久保忠寛(一翁)と面談した際、大久保から幕吏に狙われていることを教えられていたのですが、そうした忠告を無視し、龍馬は薩長土三藩の間を行き来していました。

というのもこの時期、すでに大政奉還されており、遺恨以外で龍馬を殺す意味はなくなっていたからです。本人もそれを分かっており、個人的な恨みを誰からも抱かれていないことから、安心していたと思われます。その豪胆さが裏目に出てしまったのです。

一方の見廻組は新選組に対して功績という面で分が悪く、誰か大物一人を仕留めて名を挙げたいと思っていました。それだけの理由で、龍馬は討たれてしまったのです。

ここから分かることは、油断は禁物だということ、相手をなめてかかってはいけないこと、さらに言えば、時代の趨勢など分からない連中もいることを忘れてはならないということです。

土佐藩邸には入れず、薩摩藩邸には入らず

――自分の命を狙う連中がいることを分かっていたのに、なぜ龍馬は土佐藩邸に行って避難しなかったのですか?

行かなかったのではなく、行けなかったのです。土佐を脱藩した罪は許されても、龍馬は土佐藩士には復帰していません。ですから京都に滞在する時も藩邸で起居できなかったのです。藩邸というのは機密がたくさんあります。また聞き耳を立てれば様々なことが聞こえてきます。そのため土佐藩執政の後藤象二郎は、龍馬を藩邸に入れませんでした。しかもボディガードも付けなかったので、龍馬はたいへん危険な状態に置かれていました。

そんな龍馬を見て、薩摩藩士の吉井幸輔は龍馬に薩摩藩邸に入ることを勧めますが、龍馬は土佐藩に義理立てして断ります。かくして惨劇が起こるわけです。

京都 近江屋跡

京都 近江屋跡(写真=江戸村のとくぞう/CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons

――龍馬が暗殺された後、犯人について様々な噂が飛び交ったそうですが、いったい誰が疑われたのですか?

当初は新選組が疑われ、弟分の陸奥宗光などは新選組の屯所を襲おうなどと言っていたようですが、結局はうやむやになり明治維新を迎えます。

ところが先ほど述べたとおり、明治三年になって、今井信郎が直接手を下したのが自分たち見廻組だったと証言します。これで手を下したのが誰かは明らかになりましたが、黒幕は依然として不明です。

会津藩にも紀伊藩にも動機はあるが…

組長の佐々木に暗殺を示唆した人物として、佐々木の実兄で会津藩公用方の手代木直右衛門だという説が有力です。会津藩が大政奉還を主導した龍馬を忌々しく思っていたのは確実で、それに大物を討って功にしたい見廻組の思惑が一致したわけです。

しかし手代木は会津藩のエリート官僚で、恨みから意味のない暗殺を弟に持ちかけるとは思えません。しかも会津藩と見廻組では命令系統が違うので、いくら弟でも、佐々木が唯々諾々と引き受けたとは思えません。

そのほかにも「いろは丸事件」で法廷闘争となり、多額の賠償金を支払わされたことを恨みに思った紀州藩も可能性としてゼロではありません。ただし会津藩と見廻組のように強いパイプがないので、暗殺を示唆することができたとは思えません。

また薩摩藩説や土佐藩説もありますが、取るに足らないものです。こうしたことから、黒幕は会津藩か紀州藩に絞られますが、これ以上の探索は、新史料が出てこない限り困難です。

「黒幕なんかいなかった」説

――それ以外に黒幕となり得る人はいないのですか?

寺田屋騒動で龍馬が拳銃で2人の捕吏を殺したことから、捕吏に同情した見廻組が暗殺したという説もありますが、佐々木ら旗本と捕吏では身分が違いすぎ、捕吏の上司(京都町奉行所)や家族から佐々木らが頼まれ、恨みを晴らすのは筋違いだと思います。

では、私ならどう考えるかですが、基本的に近江屋事件は佐々木らの功名心が起こしたもので、黒幕はいなかったと思っています。しかし、仮にいたとしたら、紀州藩家老の三浦休太郎だと思います。事件後、三浦は実際に海援隊と陸援隊に襲撃されているからです(天満屋事件)。

海援隊と陸援隊が間違った情報を基に行動を起こしたとは考え難く、黒幕がいたとしたら蓋然性は高いと思います。

坂本龍馬と中岡慎太郎の像

写真=iStock.com/coward_lion

※写真はイメージです

龍馬が生きていれば、歴史は変わった?

――龍馬の死は、どのようなインパクトがあったのでしょうか?

明治維新後、龍馬が「世界の海援隊」を率いて貿易航路を切り開いていたかと思うと残念でなりません。後に岩崎弥太郎が龍馬の夢を引き継ぎますが、スタートラインにおける人脈に違いがありすぎるので、海援隊は後の三菱を大きく上回るコングロマリットになったかもしれません。

――志半ばで倒れた龍馬と現代に続く三菱グループを築いた岩崎弥太郎とでは、何が2人の明暗を分けたと思いますか?

明暗とは言い切れませんが、龍馬がいなくなったことで、弥太郎の居場所ができたことも確かです。弥太郎は頑固で功名心が強く、人付き合いもうまいとは言えず、利己的な人間です。ただ足軽階級から成り上がるために、努力を惜しみませんでした。それが三菱グループを築くことにつながっていくわけです。

ここから学べることは、「努力はすべてのウィークポイントを覆せる」ということです。

――龍馬が生きていたら、戊辰戦争を止められたと思いますか?

西郷らは西郷らの思惑で動いているので、龍馬の死によって止め役がいなくなったというのは考えすぎです。同じように戊辰戦争も行われたはずです。ただし、平和のために龍馬が奔走していたのは間違いなく、新政府と会津藩の間を取り持ち、東北戊辰戦争はもっと小規模なものになったかもしれません。

北海道開拓で活躍していたかもしれない

――もしも龍馬があそこで暗殺されずに生きていたら、その後の人生で、どんなことをしていたと思いますか?

一説に明治政府の参議に名が挙がっていて、本人もまんざらではなかったとされますが、海軍大臣あたりに収まっていた可能性はあります。というのも晩年の龍馬は、政治活動が主で、海援隊の活動、すなわちビジネス面が従になっていたからです。

しかし最晩年の書状には、蝦夷地での活動計画が具体的に書かれており、やはり龍馬は、内戦が終わったら海援隊の活動に軸足を戻そうとしていたのではないかとも思います。

つまり北海道開拓と、その物産で貿易を盛んにしていくという生き方ですね。

「きっと大丈夫だろう」が隙を生んだ

――龍馬の敗北から学ぶべき教訓をお願いします。

伊東潤『偉人・敗北からの教訓』(日本能率協会マネジメントセンター)

第一に「油断と慢心を慎むべし」です。

龍馬が狙われていることは、周囲の人からの情報で分かっていました。それでも龍馬は高を括っていました。大政奉還が成った今、自分を殺す意味がなくなっていたからです。おそらく正常性バイアスが働き、自分にそう言い聞かせてもいたのでしょう。

人というのは長い緊張に耐えられません。そのうち緊張状態に慣れてしまい、油断や慢心が生まれてきます。龍馬の死は、それを教えてくれています。

第二に「過度な買い被りを捨てるべし」です。

自分は新しい日本のために必要という思いが、龍馬にはあったと思います。しかし敵には敵の思惑があり、別の動機で動いています。つまり日本の将来を見据えた大局観などないのです。現代の組織社会を生きるわれわれも同様です。自分がいないと会社は回らないと思っているのは、自分だけなのです。

第三に「己の運の強さを過信するべからず」です。

誰でも「自分は運の強い人だ」と思いたがります。しかし本当にそうでしょうか。運などというのは少しでも気を許すと、するりと去っていきます。おそらく龍馬は自分の運の強さを信じていたのでしょう。そのため脇が甘くなっていて、そこを突かれたのです。

私は常に「自分は運の弱い方だ」とか、「まだ運を使いきっていない」という考え方をします。そうすると物事に対処する時に慎重になり、また掴んだ運を手放さないようになります。

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