
卑弥呼と古事記と日本書紀 【第3回】
吉木 正實
卑弥呼はどこに消えたのか?
『古事記』の偽装、『日本書紀』のからくりに挑む。
なぜ『古事記』と『日本書紀』に卑弥呼の影はないのか?魏志倭人伝が記した邪馬台国の存在と、記紀が伝える神話との間に潜む齟齬。天皇統治の正当性を支えるために施された歴史改ざんの可能性を、豊富な史料と鋭い視点で解き明かす。記紀に仕掛けられた「からくり」を解読し、真の歴史に迫る挑戦の書。あなたの知る日本の古代史は、本当に「真実」なのか——。※本記事は、吉木正實氏の書籍『卑弥呼と古事記と日本書紀』(幻冬舎ルネッサンス)より、一部抜粋・編集したものです。
【前回の記事を読む】根底に流れる思想が「天皇統治の正当性の主張」である以上、『日本書紀』は、『古事記』によって枷をはめられている
はじめに 偽装の『古事記』とからくりの『日本書紀』
からくりの『日本書紀』
だが『古事記』と『日本書紀』の場合には、このような覚悟を持って史実と向き合った編纂者が居たようには思われないのだ。特に『古事記』の場合は、稗田阿礼(ひえだのあれ)の習誦した帝紀・本辞を太安万侶(おおのやすまろ)が筆録したものであるが、稗田阿礼にそれを命じたのは天武天皇だったのである。
天武天皇が意図したままの『古事記』が出来上がったことは間違いないだろう。『古事記』の前文を読めば納得されるに違いない。
そして『日本書紀』であるが、『日本書紀』の紀年では百済記、または百済記からとったと思われる記事を利用する時に、その干支を二運(百二十年)さかのぼらせている。
井上光貞は、「日本書紀の編者のこのようなからくりは、記紀の紀年の問題を学問的に検討した那珂通世(なかみちよ)いらいの定説(『日本の歴史1 神話から歴史へ』「謎の世紀 神功皇后と朝鮮の記録」井上光貞、中央公論社)」だと指摘している。
つまり『日本書紀』はか・ら・く・り・の・書・であるわけである。このからくりを史実と照らし合わせてみれば、どうみても歴史の改ざんを行ったのは『日本書紀』の編纂者自身ではないのかと疑いたくなるのである。
しかも「日本書紀神話」は、「古事記神話」についても大枠でこれを踏襲・補完する立場を取っており、天武天皇の思惑通りの記事を書いているように思われる。
なぜなのであろうか。『日本書紀』の編纂者たちは、誰も史実と向き合わなかったのであろうか。それとも、天皇統治の正当性を主張するために歴史の改ざんがあったと疑うこと自体が考えすぎなのであろうか。
奇怪な記事、新斉都しせつ媛ひめと池津いけつ媛ひめ
実は『日本書紀』のからくりは、これだけではないのである。例えば、歴代天皇の在位の年数である。
特に応神天皇から雄略天皇までの七代の天皇の在位年数は、三年、五年、六年の短期間の天皇と、数十年間にわたる長期間の天皇に二極化される。
干支をさかのぼらせたからくりと、これら長期間在位の天皇たちがどこかで繋がっていることは間違いないだろう。ここにもからくりがあるということである。
そして、あるべきはずの記事の欠落と、あるはずもない記事の挿入である。
「二四七年の遣魏使(「神功紀」)」のようにあるべきはずの記事の欠落や、「天祖(あまつみおや)の降跡(あまくだ)りましてより以逮(このかた)、今に一百七十九万二千四百七十余歳(「神武紀」)の記事のように、あるはずもない空言が挿入されていることに気付くのである。
これらにもからくりが仕掛けてあるのではないかと疑われる。
b、重複記事、類似記事、辻褄の合わない記事、不可解な記事、奇怪な記事などの挿入が各所に散見される。これらは単なる間違いか。それとも意図されたものなのか。
例えば強調のためか。または何かを否定、もしくは肯定しようとしているのか。あるいはからくりに引き込むための誘導なのか…。これらの記事には確かに違和感を覚えるのである。どこかでからくりと繋がっているのではないかと疑われるわけである。
奇怪な記事を二つ紹介してみよう。これらの記事は果たしてからくりとどう繋がっているのであろうか。
第一は「応神天皇紀」三十九年条の記事である。
三十九年の春二月(はるきさらぎ)に、百済(くだら)の直支王(ときわう)、其(そ)の妹新斉都媛(いろもしせつひめ)を遣(まだ)して仕(つか)へまつらしむ。爰(ここ)に新斉都媛、七(なな)の婦女(をみな)を率(ゐ)て、来帰(まうけ)り。(『日本書紀(二)』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 黄4-2岩波文庫 による。以下『日本書紀』で特に断り書きのないものは同じ)
第二は「雄略天皇紀」二年条の記事である。
二年の秋七月(あきふみづき)に、百済(くだら)の池津媛(いけつひめ)、天皇(すめらみこと)の将(まさ)に幸(め)さむとするに違(たが)ひて、石川楯(いしかわのたて)に婬(たは)けぬ。(略)天皇、大(おお)きに怒(いか)りたまひて(略)仮庪(さずき)の上(うへ)に置(お)かしめて、火(ひ)を以て焼(や)き死(ころ)しつ。百済新撰(くだらしんせん)に云はく、己巳年(つちのとのみのとし)に、蓋鹵王立(かふろわうた)つ。
天皇、阿礼奴跪(あれなこ)を遣(つかは)して、来(きた)りて女郎(えはしと)を索(こ)はしむ。百済、慕尼夫人(むにはしかし)の娘(むすめ)を荘飾(かざ)らしめて、適稽女郎(ちゃくけいえはしと)と曰(い)ふ。天皇に貢進(たてまつ)るといふ。(『日本書紀(三)』黄4-3岩波文庫)
これらの記事のどこが奇怪なのかというと、直支王はこの時はすでに薨去(こうきょ)していたのである。「応神天皇紀」二十五年条には、百済の直支王が薨じたことが記されている。
また蓋鹵王は、己巳の年にはまだ即位しておらず、実際に即位したのはそれから二十六年後の乙未(きのとひつじ)の年なのである。
つまりこれらの記事では、すでに死亡して居ないはずの王がその妹を遣わし、まだ即位しておらず存在しないはずの王が美女をたてまつっているのだ。新斉都媛(しせつひめ)と池津媛(いけつひめ)の名が似通っているのも奇怪である。
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※本記事は、2025年4月刊行の書籍『卑弥呼と古事記と日本書紀』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。


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