画像:戊辰戦争における薩摩藩士 public domain
日本が欧米列強と肩を並べる国家となるか、はたまた植民地として支配されるかの瀬戸際だった幕末期、多くの維新志士が日本を新しい時代へ導くために活動した。
特に維新三傑に数えられる西郷隆盛と大久保利通は、薩摩で生まれ、幼少期から鹿児島城下の加治屋町で共に育った幼馴染同士だった。
彼らの盟友関係がなければ明治維新の実現は大幅に遅れていたともいわれており、もしそうなっていれば今日の日本は存在していなかったかもしれない。
お互いに下級武士の子として生まれた西郷と大久保を引き合わせ、維新の英傑となる礎を育んだのは、薩摩藩独自の教育システム「郷中教育(ごじゅうきょういく)」だった。
今回は、幕末最強と謳われる薩摩武士の団結力や精神力の根源であった「郷中教育」や、同郷で育った維新の英傑西郷隆盛と大久保利通の関係について掘り下げていきたい。
郷中教育の仕組み

画像:Sakoppi wiki c Sakoppi
郷中教育とは、薩摩で行われていた独自の青少年教育だ。
古くは島津家中興の祖と呼ばれる島津忠良の時代に端を発するとされるが、地域ごとに郷中という集団を編成する体制が整えられたのは、江戸時代中期頃のことである。
「郷中」とは、方限(ほうぎり)と呼ばれる一定の区画内に住む、中下級武士の子弟から成る集団のことで、それぞれの郷中に所属する6歳以上の男子が教育の対象となり、本人の能力および親の地位や財力に関係なく、年齢差のみで判断される上下関係が絶対とされていた。
教育とは言っても、現代の学校や塾などの教育機関とは異なり、直接子どもたちを指導する教師は存在しなかった。
郷中教育では先輩が後輩を指導・教育する形式が採られ、6歳から10歳までの子供が「小稚児(こちご)」、11歳から15歳頃までの元服前の少年が「長稚児(おせちご)」、元服後から25歳までの青年が「二才(にせ)」、それ以上の年齢の大人は「長老(おせ)」と呼ばれた。
小稚児の教育を長稚児が、長稚児の教育を二才が、そして二才の監督や全体の見守りを長老が行うという形で、最初は教えられる側だった年少者たちが成長を経て、後輩に教える側にもなる。
異なる年齢の子どもたちが集まって学び合うことにより、お互いに甘えは許されなくなる。
年長者は教える者としての強い責任感を持つようになり、年少者は先輩から自主的に物事を学ぶようになっていったという。
郷中教育の教育内容

画像:薬丸野太刀自顕流の奉納前の稽古の様子。郷中教育では剣術として薬丸野太刀自顕流の稽古を取り入れていた。 wiki c T/Y
郷中教育の教育内容は多岐に渡り、詳細は郷中ごとの自治に任されてもいたが、文字の読み書きや儒学などの学問に加えて、剣術や水泳、山歩きなど肉体を鍛えるための実践的な科目も取り入れていたとされる。
中でも特徴的なのは、「僉議(せんぎ)」というディスカッション形式の議論が行われていたことだ。
僉議では明確な正解がないテーマ、たとえば「有事の時、主君と親のどちらを取るか」などの倫理観を問う問題に対して、その日1日で学んだ内容をもとに、各々の考えを発表して意見を交換し合う。
僉議の際は、問を投げかけられたら必ず即座に答えなければならず、さらには自分の考えを筋道立てて説明し、周囲からの問いかけに答えながら、武士としてどう判断し行動すべきかを深く考えることが求められた。
難しい問題に関して自分自身の考えを述べ、仲間と話し合いを行う経験を積むことにより、薩摩の若者たちは自主性や判断力、そして団結力を鍛えていった。
郷中教育で行われていた僉議は、薩摩という地域が政治の中心地である江戸から遠く離れていたからこそ、人材育成のためには欠かせない科目だった。
立地的に諸外国との接触機会が多かった薩摩では、重要な判断をする場面でいちいち幕府の返答を待っていては話がまったく進まず膠着状態となり、もたもたしていれば藩の存続すら危うくなる可能性があった。
僉議で培われた臨機応変な判断力と自主性は、諸外国の圧力が強まり幕府の権威が失われていった幕末に花開き、薩摩藩士の中から明治維新の立役者の多くが輩出されたことに繋がったとされる。
血気盛んな若武者に課せられた厳格な規則

画像:太平記英勇伝八十三:新侶武蔵守唯氏(新納武蔵守忠元) public domain
郷中においては、10代後半から20代前半の血気盛んで素行が荒れやすい二才に対して、守るべき厳格な規則も課せられていた。
島津家家臣の戦国武将・新納忠元(にいろ ただもと)は、島津義弘と兵たちが文禄・慶長の役で薩摩を長期間留守にした際、『二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)』を定めて、士気が緩み始めていた青少年の行動を取り締まった。
今日では否定されているが、かつてはこの『二才咄格式定目』が郷中教育の起源になったと考えられていた。
『二才咄格式定目』では、常日頃から武道の鍛錬を行い武士としての品格を油断なく保ち続けること、どんな困難な問題も仲間内でよく話し合って処理することなど、薩摩の武士として当然守るべきとされる規則が定められていた。
さらには嘘を吐かないこと、弱い者いじめをしないこと、さらには異性との一切の交遊禁止など、日常において二才が守るべき規則が事細かに定められ、1つでも規則違反が見つかれば二才を名乗る資格はないとされた。
鹿児島は男性優位の「九州男児の県」というイメージを持たれることがあるが、これはかつて郷中で培われていた極端な女性忌避精神の影響が大きいとする説もある。
郷中教育においては、二才は外で女性と接点を持つだけではなく、女性に関する話をすることすら戒められ、性欲を厳しく制御して鍛錬に励むべきと定められていた。
年頃の男子に対する厳しい禁欲と厳格な縦社会の影響で、日本全体では近世後期以降に男色文化が目立たなくなっていく一方で、薩摩では独自の形で長く残ったとされる。
郷中教育の中で青少年時に繋がれた絆は途切れることなく続き、その結束力が薩摩武士の強い団結力と素早い決断力、そして英国の艦隊とも渡り合った戦闘力の源になったという。
同じ郷中で育った西郷と大久保

画像:西郷隆盛の生誕地付近(鹿児島市加治屋町)wiki c Doricono
維新三傑として知られる西郷隆盛と大久保利通は、お互いに薩摩国鹿児島郡加治屋町(下加治屋町方限)の郷中や藩校造士館で教育を受けた幼馴染だった。
年齢差は西郷が1828年生まれ、大久保が1830年生まれで、西郷が約2年8か月年上である。
西郷は11歳頃に、郷中仲間と他の郷中の人間との喧嘩の仲裁で負ったケガの後遺症で刀が握れなくなり、学問で身を立てようと志した人物だった。
一方で大久保は胃弱のため武術は苦手としていたが、学問において郷中では抜きんでて優れていたという。
人情に厚く大らかな西郷と、理詰めで冷徹な大久保は正反対と言える性格だったが、郷中で学び合う中で互いに認めあい信頼しあう“信友”同士となっていった。
1850年に薩摩藩のお家騒動「お由羅騒動」が起きて大久保の父が流罪となり、父に連座して職を解かれ謹慎処分となった大久保は、その日に食べる物にも困るような貧しい生活を強いられたが、その窮地を救ったのが西郷だった。

画像:薩摩藩士時代の大久保(明治元年頃) public domain
下加治屋町郷中のリーダー格となっていた西郷は、自らも決して裕福というわけではなかったが、食うや食わずの大久保を実家に招いて食事を共にしたという。
大久保は苦難の時を西郷の助けで乗り越えた後、島津斉彬が藩主となってから復職して、斉彬の死後に西郷が流罪となった際は仲間らと協力し、西郷の復帰を後押しした。
しかし2人の念願が叶った明治維新後まもなく、西郷と大久保は政治方針の相違により決裂してしまう。
やがて西南戦争で政府軍と敵対する立場となった西郷の自決の報せを聞いた時、大久保はうろたえ号泣し「あなた(西郷)の死とともに強く新しい日本が生まれる。」とつぶやいたと伝わる。
「西郷の心がわかるのは俺だけだ」と話し、西郷との別れを悔やみ続け、西郷の伝記の執筆の依頼をも計画していた大久保だが、西郷の自決から約8ヶ月後の1878年5月14日、東京紀尾井町で不平士族に斬殺された。
死の直前の馬車の中で大久保は、生前の西郷から送られた手紙を読んでいたと言われている。
明治期の日本を率いた加治屋町出身者

画像:維新ふるさと館と甲突川。遠くに見える山は桜島。 wiki c 鹿児島市
「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである。」
作家の司馬遼太郎は、加治屋町についてこのように述べた。
加治屋町出身で、西郷や大久保と同じ下加治屋町郷中に所属していた著名な人物としては、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛、吉井友実、税所篤、黒木為楨などがいる。
江戸時代までの加治屋町は、島津家直臣の中では最も低い身分の武士たちが住む区域であったにもかかわらず、明治政府の要職を担った人物の多くが下加治屋町郷中から輩出されたのだ。
お互いが自らの信念を貫いた結果、明治維新の立役者であった西郷と大久保は悲痛な別れと最期を迎えることとなったが、彼らを育てた教育がなければ日本の未来は変わっていたのかもしれない。
偉人は国家の窮地に突然登場するものではなく、幼い頃からの教育や経験の結果として生まれるものだ。
過去に限らず現代の日本にとっても、後進の教育や育成はより一層重要な意味を持つことになるだろう。
参考 :
塩野時雄 (著) 『薩摩の郷中教育に学ぶ 最強の後継者育成』
日高正信「郷中教育における話し合い活動 詮議について」他
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部


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